ふだんわたしたちは、コインを丸いものと見なしている。そして、百円玉、十円玉などと言う。もちろん、「丸い」とか「玉」と言っても、それは決してビー玉のような球形ではなく、正確には円盤形のことだと、誰でも承知している。
つまり、コインをテーブルなどの上に置いた時、あるいは床や地面に落としたとき、人間の目の位置から見下ろすと丸く見えるということだ。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれている時、人間の視線の自然な角度から見ると、丸い。そこで、私たちは、
コインは円形だ。
という文を承認する。それはまことにもっともな発言だと思う。
けれども、もちろんコインは年中円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれば、明らかに、薄い長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。そしてわたしたちには、そんなことは分かりきっているように思われる。しかし、ものはためしに、
コインは長方形だ。
という文を口に出して言ってみると、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする。
わたしたちは日常、円盤形のコインに向かって、たいていその丸い面に対する方向からつき合っている。いわば、コインの《円形の面》からのつき合いのほうが、《長方形の面》からの接触より頻繁だ。しかし、それはそれだけのことである。論理的に二つの面は同格と言うべきであろう。
また、少なくとも現代人のわたしたちにとっては、コインを薄い長方形として認識するべき機会はずいぶん多いはずなのだ。駅で切符を買うときも、たばこを買う時も、わたしたちは自動販売機の、薄い長方形の穴へコインを入れる。そしてその穴の形は、正確にコインの一面を表現している。
百円玉は円形だ。
百円玉は長方形だ。
という二つの文の、論理的かつ実証的な構成は、ほとんど等しい。どちらも省略的で、どちらも一面的である。後者の発言は（したがって後者の認識は）前者より頻度が低いだけである。
わたしたちの日常のまなざしは、いつもある視点からある光景を見る。美女を正面から見ている時は、後ろ姿が見えない。着飾った姿を見ている時は、裸体は見えない。視線だけではなく、人間の認識一般は、ある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい、言語表現に反映して現れる。
ある立場にあぐらをかいたまま、腕を組んで眺めているだけでは、ものの真相はよく見えない。自分の認識がーしたがって自分のことばがー有限で一面的だといつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチを試みることになる。
そして、「コインは長方形である」という認識は、奇妙だけれど決してうそではないということに気づく。そこに気づくことのできない硬化した精神が自動販売機を設計すると、丸い穴を開けてしまうことになる・・・・・・・。もちろん、コインのような取り扱いのやさしい対象に関しては、そんな、冗談にもならぬ愚かな事態はあり得ない。しかし人間は、コインのように手のひらの上で転がしてみたり、自由にいじくりまわすことのできる対象ばかりを相手にして生きているのではない。
わたしたちは、生きている人間や、手で触ることのできない抽象的な存在などをも相手にして生きている。そういう対象に向かって、あの人は丸い人物だ、とか、あの組織は四角いはずだ、などと一面的に決めつけて、それ以外の視点から見る可能性をいっさい考慮に入れない精神硬化現象なら、いっこうに珍しくない。
レトリックはことば巧みに人をたぶらかす術である・・・・・・という困ったレトリック観がある。なるほどそういう不届きなレトリックもないわけではないが、そういう通俗的な悪口につられて、レトリックの積極的な意義まで見落としてしまうわけにはいかない。
本来のレトリックとは、わたしたちの認識と言語表現の避けがたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望があり得るのではないか・・・・・・と探求する努力のことでもある。創造力と想像力の営みである。
レトリックとは、例えば枝から離れた果実が地面に落ちるという事態を目撃した時、単に「りんごが地面へ落ちた」と考えることだけでは満足しないことである。ことによると、《りんごに向かって地面が突進してきた》とも考えられはしないか、あるいは《りんごと地面は互いに引きつけ合っている》と考えるべきではないか・・・・・・と、さまざまな想像力を働かせることであろう。レトリックとはそのように多角的に考え、かつ、多角的なことばによって表現してみることである。
レトリックは発見的認識への努力に近い。（ つづく。）
