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まず、朝廷や地方の国司等につかえて、警備や護衛にあたったものたちを武士という。彼らは貴族や皇族につかえて、地位を高めた。
武士らは一人のリーダーを中心に武士団というのをつくっていく。ちなみにそのリーダーの事を棟梁。漢字注意!
主人の一族を家子、一族ではない人を郎党という。武士団は朝廷などにつかえていた。
935年平将門の乱 939年藤原純友の乱
1051年~1062年前九年の役 安倍氏の反乱。源氏である、源頼義などにより鎮圧。
1083年~1087年後三年の役 清原氏の反乱。源義家が鎮圧。この戦いで、源氏は東国へと勢力拡大。
といった、反乱が発生、そのような反乱を鎮圧するために、武士団を使って、鎮めた。その武士団の中でも強大なものは源氏と平氏というわけです。
その源氏と平氏はそれぞれつかえているところが違う。源氏は清和天皇つまり皇族のもとでつかえた。
平氏は、同じく朝廷でつかえた。ということです。
院政が始まり、武士達は税の負担から逃れようとするものが、現れたり、乗降が政治するところを院というがその軍事力として、北面の武士と西面の武士があったり、寺院のお坊さんが、武装して、僧兵になるものが現れたりしました。その院政の最中で当時の鳥羽法皇が亡くなり、その跡継ぎ争いが起こる、これを保元の乱という。これによって、藤原氏の力が弱まり、政治の主導権は武士へと移っていきました。
その3年後平清盛と源義朝の争いに藤原氏の近臣による、争いが重なっておきた。これを平治の乱という。そこで、源氏が大敗、源義朝の子源頼朝は伊豆へ流された。それによって、平氏政権へ移りました。
最後に、1189年源義経をかくまったとして、奥州藤原氏を滅ぼす。
そして1192年源頼朝が征夷大将軍に任命。鎌倉幕府の幕開けである。
鎌倉幕府の成立年は諸説あり。
幕府成立の定義が曖昧な事が理由です。 源氏が、将軍だったのもたったの三代のみです。それ以外は北条氏が代わりに執権として政治をした。
以上です。長いかもしれませんが、一連の流れはこれです。歴史は只覚えるだけではありません!流れを掴むことが最も大切、只適当に覚えることではないと、ぼくは思っています。間違えていたらすいません。頑張ってください、同じ中学生として、応援しています!
で、長いですが続きです。
平氏の力はどのようにして、つけたか?
その答えは藤原氏と同じようなことをした。外戚政策(天皇の外祖父になって権力をふるう)によって、権力を握った。
1167年平清盛が太政大臣となる
これは武士としては初めてである。
また、同時に当時宋と貿易をしていた(日宋貿易)を兵庫の港、大輪田の泊で行われた。
しかし、貴族や各地の武士の反感をかってしまう。その結果、源平合戦の始まりである。
1180年以仁王が平氏追討命令を出す。(応用、覚えなくていいです。流れとして記載しておきます。)
1180年源義仲が木曽で挙兵。
→先に挙兵。
同年に石橋山の戦いで破れる。
同年富士川の戦いで源頼朝が挙兵し、鎌倉に入り、交戦せずに源氏の勝利。
この時、あるエピソードがあって、戦わずに終わりました。そのエピソードとは、ある武士が、川に馬で入ったら水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。その結果平氏大混乱という逸話があります。興味があるなら調べてみてください!
1181年平清盛死去
1184年宇治川の戦いで義仲を破る。
同年一ノ谷の戦いで源義経らの活躍により、源氏大勝。これも有名な逸話があります。一ノ谷はスゴく急な谷であります。そこで、義経は馬を二頭落として、一頭がうまく、その断崖絶壁を下れたことから、馬がいけるなら自分等もいけるやろっていうかんじで奇襲し、成功。
1185年屋島の戦いでは源氏の大勝
→有名な話は那須与一による扇の伝説ですね。詳しくは長くなるので、調べてみてください!
1185年 壇之浦にて、東から西へと追いやれた平氏が源氏により滅亡した。これを壇之浦の戦いという。
安徳天皇入水したのもこの時である。