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恐らくその説明は後醍醐天皇のことでしょうから後鳥羽院には当てはまりません。
そもそも後鳥羽院自体は元々幕府のお陰で天皇になれたような人物で、それ故に幕府との関係も悪くはありませんでした。問題が起きたのは、後鳥羽は
公武融和体制とも言うべき、朝廷と幕府が協力して政治をやっていこうとする政治体制を理想としたとする考え方がありますが、その実現が難しい事を悟ると後鳥羽の態度は硬化します。そのような時期にとんでもない急報が鎌倉より告げられるのです。
三代将軍源実朝が暗殺されたという内容です。鎌倉将軍はこれにより源頼朝以来3代続いた将軍家の血筋が途絶えることになり、大いに動揺することになるのですが、この際に後継の将軍を、権威的な存在である天皇の血筋から貰おうという案が浮上します。要は後鳥羽の皇子を将軍として鎌倉に寄越してくれという事です。しかしこれを後鳥羽は拒否します。何故かは明確にはわかりませんが、一説には幕府の崩壊を望んでいたからとも、幕府への増悪故とも、またその両方とも言われます。
そして逆に後鳥羽は幕府に対して、自身の愛人の持つ荘園の地頭をクビにしろという要求を突きつけます。が,これを今度は幕府側が拒否、幕府と後鳥羽の間の対立は最高潮を迎えます。
そしてとうとう後鳥羽は討幕の準備を整え、北条義時追討宣旨を出すに至ります。
この報告を聞いた尼将軍、北条政子が語ったのが資料3です。
以下は資料3と同じく『吾妻鏡』承久三年五月十九日条より引用
「二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛をもって示し含めて曰く、皆心を一つにして奉るべし。是最後の言葉なり。故右大将軍朝敵を征伐し、関東を草創して以降、官位といい俸禄といいその恩既に山岳より高く、溟渤より深し。報謝の志浅からんや。しかるに今逆臣の讒により、非義の綸旨を下せらる。名を惜しむの族、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は只今申し切るべし。といへり。群参の士悉く命に応じ、且つ涙に溺れ、返報申すこと委しからず。只命を軽んじ恩に酬いんと思う。まことに是忠臣国危うきにあらわるというはこれ言うか。武家天気に背くの起こり、舞女亀菊の申状により、摂津国長江・倉橋両荘地頭職を停止すべきの由、二箇度宣旨を下さるるの所、右京兆諾し申さず。是幕下将軍の時、勲功賞を募り定め補すの輩、指したる雑怠無くして改め難き由これを申す。よって逆鱗甚だしき故なりと云々」
つまり『吾妻鏡』の記述を信ずるならば、
「政子の檄によって感化された御家人が一致団結したため、院側に付くものが少なかった」
と言うのが正しいでしょう。
テスト用であればそれで構いません。
一応建武政権崩壊理由は何点かありますが、
・武士の需要をこれっぽっちも理解していない
・そもそも下々の人間は天皇である自分に従うのは至極当たり前という、後醍醐のある種の独善的思考
・独善的性格から繰り出される現実離れした政策の数々
・現実離れした政策により離れる民衆心理
まぁこんなところでしょうか。
彼はとにかく俺は天皇なんだから世の中を治めるのは当然だ、ぐらいのテンションの人なので、下々の人間の考えを理解する気も無いのです。
例えば足利尊氏は征夷大将軍に任命されて幕府を開く気満々のつもりであったとされますが、後醍醐は天皇がNo.1という考えなので、六波羅探題攻略の功績がある尊氏を冷遇したり、全国の土地の所有関係など全て一旦白紙で、自分が確認しないと認めないなどなどetc…
延元四年八月十六日、吉野の霧に包まれるかのようにこの世を去ることになる後醍醐ですが、彼の望み自体は子へ孫へと継承されていくことからも、恐らくその性格を顧みることはなかったのでしょう。
ありがとうございます!!
歴史のやる気めっちゃ出ました!!
めっちゃわかりやすいです、!!
建武の新政についてなぜ不満がたまったのか聞かれたらなんて書いたらいいですか!
武家より公家が優遇されたからなどでいいんですかね、