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日本史 高校生

ほとんど分からなく、教えていただきたいです🙇🏼‍♀️

天平文化の中心となったのは仏教で, 朝廷の保護を受け, 国家仏教としてさかえた。都には興福寺や東大寺など 大寺院が多く建てられ, 南都六宗とよばれる仏教を研究する学派の基礎が形成された。 政府は, 僧尼が寺院外で 布教することを禁じていたが, (①)のように社会事業や布教活動を行う僧もあらわれた。 天平文化を代表する建築物としては、聖武天皇の遺愛品が収蔵された校倉造の(②) 宝庫や, 三月堂ともいわ れる(③) 法華堂, 現存する奈良時代唯一の金堂である唐招提寺金堂などがある。 また, 奈良時代にはさまざま な書物が編纂された。 歴史書では, 奈良時代初めに『(4)』と正史の『(⑤)』が完成し, 諸国の地理・産物など の調査報告書として『(⑥)』 がつくられた。 現存最古の漢詩集となる 『(7)』 や, 有名な歌人の歌から地方の農 民の歌まで約4500 首の歌を集めた 『(⑧)』 も編集された。 問1 文中の(①)~(8)に適する語句を答えよ。 問2 (④)作成にあたり、 天武天皇が稗田阿礼に暗記させた天皇家の系譜や伝承を筆録した人物は誰か。 問3 (⑤)に採用された, 年月の順を追って史実の展開を記述する歴史叙述の形式を何というか。 問4 次のア~エのうち, 天平文化の時代につくられたものを記号ですべて答えよ。 ア. 薬師寺東院堂聖観音像 イ. 東大寺法華堂執金剛神像 ウ. 興福寺阿修羅像 エ. 唐招提寺鑑真和上像

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日本史 高校生

答えが分からないので教えてください

9 10 8 11 12 14 15 16 13 17 18 6 7 5 |本朝 (皇朝) 十二銭の一つ。 7世紀の富本銭に続いて、 1708年武蔵国より銅が献 上されたことで鋳造した。」 都からの使者や官人が. 使用する馬などを配備し た宿泊・休憩施設。 3 [条坊制」 東西南北を基盤目状に |区分した制度。 平城宮 1 2 うまかい 武智麻呂・房・孕谷・ まろ 麻呂の4兄弟。 藤原氏の 系譜である南家・北家・ 式家・京家の祖となった。 裏や、政務・儀礼を行っ だいごくでん ちょうどうい た大極殿 朝堂院, 官庁 が置かれた場所のこと。 4 14 だい 天皇の生活の場である内 V 原始・古代 平城京と政権の動揺 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 618 年, 唐は中国を統一して, アジアに大帝国を建設した。 A やくしん 国際都市として躍進した唐の都 ( 1 ) に, 日本は遣唐使 を派遣して多くの留学生や学問僧が渡航し、唐の先進的な (1) 710年, 藤原京から平城京に遷都して奈良時代を迎えた。 じょう 図Bの平城京図をみると、唐の都 ( 1 ) を参考にした条 政治制度・文化を日本にもたらした。 しかし、唐への渡航は そうなん 遭難が多く, 地図Aのような安全な北路で渡航したが,新羅 との関係悪化のために, 8世紀には危険な南路をとらざるを ひんぱん 得なかった。一方で,中国東北部の ( 2 ) とは使節の往来を頻繁に行い, 国交を結んだ。 B 平城宮 ぼうせい 坊制をもつ都市で、 中央を南北に走る ( 3 )を軸に東の 左京 西の右京にわけられ, 北部中央に平城宮が配置されて いたとわかる。 大安寺・薬師寺などの寺院も建立され,左京・ いちのつかさ 右京には市司が管理した官営の市が設置され、産物の売買が 唐 三条大路 四条大路 五条大路 六条大 一条北大路 西大寺・ 一条南大路 二条大路 七条大路 八条大路 九条大 さくぼう し、不比等の子である藤原四子の策謀で、当時左大臣であった 元正 4 ( 8 )を自殺に追い込み, 光明子を皇后に立てて政権を担 たちばなのもろえ 当した。 藤原四子の病死後, 皇族出身の 橘諸兄が( 9 ) きびのまきび んぼう の下で政権を担当し,唐から帰国した吉備真備と玄肪を起用し た。この起用に反発した ( 10 ) が九州で反乱をおこした が鎮圧され、この社会不安に (9) は恭仁京→ 難波宮→ なにわのみや しがらきのみや ちんごこっかしそう 紫香楽宮と遷都を繰り返し, 仏教の鎮護国家思想による国家 (13) (9) 北路 (12) 夫右 MILLI 京町 こくぶんじ こんりゅう ぞうりゅう 安定を図ろうと、国分寺建立の詔と 大仏造立の詔を出した。光 5" わどうかいちん(ほう) 行われた。物品の売買は, b 京畿内では和同開珎 の銭貨 が使用されたが,それ以外の地域ではなかなか流通しなかっ た。また,平城宮跡で発見された( 4 )により,身分による居住区分や宮廷生活の内容が 解明されている。 地方では、中央から派遣された国司が ( 5 )を拠点として地方政治を行い, かんどう えきろ 七道に沿って整備された官道(駅路)により中央と結ばれた。 そして, この官道には約16km 22 藤原 四兄弟 橘諸兄 坊坊坊坊 大大大 08 南路 230675 711 うまや ぐんけ ぐん ごとに駅家を設ける駅制を敷いた。さらに、地方豪族から任命された郡司が統治した郡家(郡 でんろ。 衙)が置かれ,伝路により国庁と結んで地方を統治し, 律令国家の形成を実現したのである。 また、支配が及んでいなかった東北地方の ( 6 ) の制圧にも乗り出し, 7世紀半ばに 旦 本海側に拠点を設けたのちに, 8世紀には太平洋側にも城柵や (5)を置いて軍事的な制 じょうさく はやと さつま おおすみ 圧を進めた。九州では、 南九州の隼人を制圧し、薩摩国・大隅国を設置して統治を進めていった。 (2) 1 西市 ふじわらのふひと 8世紀初頭、藤原未等は大宝律令や ( 7 )の編纂の中心となって律令制度を確立し, 藤原 仲麻呂 年 天皇家と密接に結びついて藤原氏の政界進出を築いた。 不比等天皇政権 の死後は、右の年表のように皇族と藤原氏が交互に政権を担当 元明 不比等 710 平塚京港郡 文武 701 大宝律令の完成 藤原 708 和同開珎の鋳造 することになり、皇族の(8) が右大臣に就任した。 しか 718 (7) の完成 大字 卍興福寺 元興寺 P2 大五六七 坊坊坊 大大 佐 20 CE 東市 坊坊坊坊 (8) 723 三世身法 AUSS 729 (8) の変 政治の内容 722 百万町歩開墾計画 | 光明子が皇后となる 740 九州で (10) の乱が発生 741 国分寺建立の詔 743 (15) の発布 大仏造立の詔 752 大仏開眼供養 757 (7)を施行 (11) の変 758 恵美押勝の名を賜る 764 恵美押勝の乱 766 道鏡が法王となる 769 宇佐八幡神託事件 藤原 770 道を左遷 百川ら かいげんくよう 平城京再遷都後は奈良で大仏造立を続け, 孝謙天皇時に大仏開眼供養を盛大に行った。藤原仲 こうみょうこうたいごう だて 麻呂が光明皇太后の後ろ盾で権力を握ると、橘諸兄の子 ( 11 ) が政変をおこすが失敗し, えみのおしかつ たまわ のちに即位した( 12 )から恵美押勝の名を賜って、権力を独占した。 しかし ( 12 )

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日本史 高校生

問1の答えあっていると思いますか?答えがないので教えて頂きたいです。

第7問 災害史 日本列島は自然豊かであると同時に、自然災害ともつねに背中合わせの歴史を歩んできた。 災害に関する下の問い (問1~4)に答えよ。 問1次のグラフと表は、古代の飢饉の原因について、『続日本紀」などを基にデータをまと めたものである。 これらを見て、 下の問い (1) (2) に答えよ。 グラフ 表 8% 256%- 679年 ~791年 1000年 - 1099 F 1150年 ~1200年 158 1200年 ~1299年 日本紀』に記載された干ばつ、風雨 地震災害 煌害の件数と比率 全国計 近畿 東海 山陽・四国 東北 (出羽・ 陸奥) 関東 173 45% 31.3% 133 50 52 RE SORELL - THIE 降雨 寒冷 高温 59 67 24.7% 4.2% 28.0% 52 35 21.1% 42 3.9% 16.3% 85 10.8% 14 10 13.5% 24 21 [] 干ばつ | 風雨地震・災害蝗害 14.5% 87 31% 見益吉郎(1979) 日本紀に見ると京都大学学会誌による。 10 154 56% 121 乾燥 104 43.1% 55 33.1% 51.8% 377 47.7% 15.3% 198 41 73 1280年 1350年 60.7% 4.3% 12.6% 22.4% 72 4 13%- 28.0% 207 26.2% 計 239 166 257 790 5 16% 326 6 19% 16 52% (1) グラフと表から読み取れることを説明した文XYについて,その正誤の組合せとし て正しいものを、 下の①~④のうちから一つ選べ。 X 飢饉の原因について地域による差異はなく、どの地域でも干ばつが最も多い理由であ った。 Y 飢饉の原因は気候変動に左右されるため、年代によっては大きく異なる。 4 X-E Y-E @ X-IE Y一誤 ③ X 一誤 Y-E X誤 Y一誤 (2) 次の文章はある地域の風土記のものである。 この風土記が記された地域を下のX・Y から、その理由として最も適当なものを下の①~④のうちから一つ選べ。 「霖雨に遭はば、即ち苗子の登らざる歎を聞き, 亢陽に遭はば,唯 穀実の豊稔なる よんこな 歓をみむ」 3 地域 X 出雲 理由 常陸 長く雨が降ることを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い東日本の風土記であると判 断できるから。 長く雨が降ることを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い西日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、長雨による飢饉が多い東日本の風土記であると 判断できるから。 日照りが続くことを喜んでいるため、干ばつの飢饉が多い西日本の風土記であると判 断できるから。 問2 次の資料は18世紀に起きた江戸時代で最大の飢饉の様子を記録したものである。これ を読み. 下の問い(1) (2)に答えよ 資料 出羽陸奥の両国は、 常は豊穣の国迫しが、 此年はそれに引かへて取わけての不熟 にて、南部津軽に至りては余所よりは甚しく (中略)元より貧しき者共は生産の 手だてなく. 父子兄弟を見棄ては我一にと他領に出さまよひ嘆き食を乞ふ されど. 行く先へも同飢饉の折からなれば、他の人には目もかけず. 一飯あたふる人も なく日々に千人. 二千人流民共は餓死せし由 又出行事の叶ずして残り留る者 は食ふべき物の限り食ひたれど、後々には尽果て先に死たる屍を切取喰ひしま (後略)。 ( 『後見草』) (1) 資料に描かれている地域を地図のアイから選び、資料から読み取れる内容をウエ から選んだ場合、その組合せとして最も適当なものを、下の1~4のうちから一つ選べ。 A 地図 内容 ウ地域のなかには豊かな収穫があった地域も存在したため、 他領からきた困窮化した人 びとに食事を恵むことがあったことがわかる。 エ貧しくても他領に移動できない人びとのなかには屍さえも食すほど飢餓に苦しむ人び ともいたことがわかる。 59

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