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日本史 高校生

分からないので教えてください🙇‍♀️

鎌倉幕府 成立過程 鎌倉を根拠地に東国武士団を結集→初期は東国を中心とした政権 1180年 侍所設置 83年 東国(東海道・東山道)沙汰権(寿永二年十月宣旨)を獲得→遠江・信濃以東の15カ国に限定 公文所・問注所設置 84年 組織 2 将軍- 85年 89年 90年 守護(諸国)・地頭(荘園・公領)の任命権獲得、京都守護 ・ 鎮西奉行を設置 奥州平定 (1 □を倒す), 奥州総奉行設置 3 頼朝, 右近衛大将となる 年 頼朝, 征夷大将軍となる→鎌倉時代(~1333) 14 [中央] 一連署 (1225) [地方] (御家人の統轄警察, 別当: 初代 5 公文所→6 □ (政務・財政,別当: 初代 大江広元) 7 (訴訟, 執事 初代 8 ―評定衆(1225 政務の評議)引付衆 (1249 訴訟) -京都守護→9 鎮西奉行→鎮西探題(1293 九州の御家人の統率) 10 ] (奥州御家人の統率) 守護 (国単位, 東国の有力御家人を任命,国内の御家人を指揮して治安維持) 11 12 ] (1221 京都の警備,朝廷との交渉 ) ・・・①京都大番役催促 ②謀叛人の逮捕 ③殺害人の逮捕 おおたぶみ 在庁官人を支配→大田文を作成 (荘園公領単位, 御家人から任命、年貢の徴収・納入、治安維持) 1段につき 13 ■升の兵米を徴収 当初の設置は平家没官領 (平家の所領) を中心とする謀叛人の所領 に限られていた

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日本史 高校生

3〜13の答え教えてください🙇‍♀️ わかるところだけでも構いません!

●鎌倉幕府 成立過程 鎌倉を根拠地に東国武士団を結集→初期は東国を中心とした政権 1180年 侍所設置 83年 組織 2 84年 85年 89年 90年 将軍- 東国(東海道・東山道) 沙汰権 (寿永二年十月宣旨)を獲得→遠江・信濃以東の15ヵ国 公文所・問注所設置 守護(諸国)地頭 (荘園公領)の任命権獲得, 京都守護・鎮西奉行を設置 奥州平定 (1 □を倒す), 奥州総奉行設置 3 頼朝,右近衛大将となる 年 頼朝、征夷大将軍となる→鎌倉時代(~1333) [中央] 一連署 (1225) 成敗と [地] 4 ](御家人の統轄警察、別当 : 初代5 ] (政務・財政,別当 : 初代 大江広元) 公文所→6 7 (訴訟,執事 初代 8 -評定衆(1225 政務の評議)引付衆 (1249 訴訟) 京都守護→9. 鎮西奉行→鎮西探題(1293 九州の御家人の統率) 10 ] (奥州御家人の統率) 守護(国単位,東国の有力御家人を任命,国内の御家人を指揮して治安維持) 11 12 (1221 京都の警備, 朝廷との交渉 ) ・・・・① 京都大番役催促 ②謀叛人の逮捕 ③殺害人の逮捕 おおたぶみ 在庁官人を支配→大田文を作成 (荘園・公領単位,御家人から任命、年貢の徴収・納入、治安維持) 1段につき 13 □升の兵米を徴収 当初の設置は平家没官領(平家の所領) を中心とする謀叛人の所領 に限られていた

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日本史 高校生

鎌倉幕府の成立過程には7つの画期が存在するが、幕府の本質のとらえ方によって、成立時期は4つにまとめられる。古い順に4つの着眼点と時期を記しなさい。年については、西暦だけでも構いません。また、複数の説がある場合は、現在最も重要な画期とされているものを挙げればよいこととします。... 続きを読む

さがみ ③ | 和田義盛は相模国の武士, 大江 広元と三善康信は朝廷の下級官 一人だった。 ● | これにより、守護・地頭の設置 が広く認められることとなった。 82 | 将軍 中央 (鎌倉) 執権 連署 地方 ⑦ 鎌倉幕府の機構 公文所 1184 問注所 1184 侍所 1180 評定衆 京都守護 [1225 鎮西奉行 1185 九州の御家人統率 |幕府の成立 所が設けられ、和田義盛が長官に任じられた。 つづ まんどころ かいしょう、 おおえのひろ いて公文所と問注所が開かれた。 公文所(のちに政所と改称)は、 大江広 くもんじょ もんちゅうじょ もんちゅうじょ 問注所が設けられたとき 政所 1191 引付衆 1249 ちと、 元が長官に任じられ、政務や財政をとりあつかった。 問注所は、急通 1140-121 しゅうにん 信が長官に就任し、 裁判に関与した。 頼朝は当初、実力で関東の荘園公領を支配していたが, 1183 (寿永 しょうえん こうりょう よりも ごしらかわほう とうさん 2)年10月, 義仲と対立する後白河法皇との交渉によって、東海道・ 道諸国に対する支配権の公的な承認 (寿永二年十月宣旨)をえた。平氏滅 せんじ ついとう 亡後,法皇が義経に頼朝の追討を命じると、頼朝はこれに強く抗議し、 てっかい。 1185(文治元)年11月に追討令を撤回させ、全国に義経捜索のための軍事 態勢を構築することを承認させた (文治勅許)。 ちょっきょ これを機に、頼朝が挙兵以来, 国ごとに任命し ていった軍事指揮官が守護として定着した。 また、 味方になって所領を保証され (本領安堵),敵とな ほんりょうあんど ぼっしゅう った武士から没収した所領をあたえられ (新恩給te 与)ていた武士が地頭として定着していった。 とうごく 守護は、各国に1名ずつ, 主として東国出身の ごけ にん おおばんやく 有力御家人が任命され, その任務は京都大番役の募も知行国 (関東知 |六波羅探題 1221 1185 鎮西探題 1293 軍事・警察 奥州総奉行 1189 奥州の御家人統率、 幕府への訴訟取り次ぎ ・守護(諸国) 地頭(荘園・国衙領) へいし ちょうてい 鎌倉幕府の成立過程 平氏が朝廷の内部 しょうあく かまくらばくふ で成長して政権を掌握したのに対し, 鎌倉幕府は, 朝廷への反乱軍として登場した点に大きな特徴が ある。鎌倉幕府の成立過程には,いくつもの画期 かつき が存在する。 じ しょう よりも きょ ①1180 (治承4) 年末・・・・・・頼朝が鎌倉に居をかまえ, とうかいどう たいしょう 大将に任命されたとき 数字は設置年 さむらいどころ 侍所を設け, 南関東と東海道東部の実質的支配 に成功したとき じゅえい とうごく ②1183 (寿永2)年10月 頼朝の東国支配権が朝 廷から事実上の承認を受けたとき げんりゃく くもんじょまんどころ ③1184 (元暦元)年10月...... 鎌倉に公文所(政所)と ぶんじ ④1185(文治元)年11月・・・・・・ 頼朝が全国的な軍事態 勢の構築を朝廷から承認されたとき じょうらく このえ けんきゅう ⑤1190(建久元)年11月・・・・・・ 頼朝が上洛して右近衛 第2編 中世の日本と世界 かまくら ごけ にん じがわ 富士川の戦いのあと, 鎌倉には御家人を統制する さいそく む ほんにん おんげち 催促、謀叛人の逮捕, 殺害人の逮捕 (関東御下知三 6 箇条)にかぎられていた。 地頭は荘園や公領に置 ちあん ⑥1191 (建久2)年3月・・・・・・ 頼朝が全国の治安維持 の担い手として, 朝廷から位置づけられたとき ⑦1192(建久3)年7月・・・・・・ 頼朝が征夷大将軍に任 命されたとき せいい たいしょうぐん Fisk ⑤と⑦, 特に⑦は、幕府という語の意味(将軍の 政府) に着目したもので, 古くから幕府成立時期と して主張されている。 これに対して、①から④と ⑥は軍事政権としての幕府の成立過程を問題にし ており、現在では④を最も重要な画期とする研究 者が多い。しかし、東国の支配政権としての性格 を重視すれば ② が有力になり, 軍事力による実力 支配を重視すれば ① が主張されることになる。 頼朝をはじめ当時の人々に鎌倉幕府の「完成形」 のイメージがあったわけではない。 現在の私たち が幕府の本質をどうとらえるかによって,その成 立時期も変わってくるのである。 皇と対面し 白河法皇が亡く これこの職は江 となり、ここにのち 一 幕府の成立後も、東 主として、多くの しており、朝廷と幕府には による二元的な支配 かまくら もつけ 301601 女性の地頭鎌倉 の乳母で、下野の有 分を産んだ女性 (寒河 の寒羽郡と同志土郷の北 ちな地頭職をみずから と 氏の一族の女性は、地 人の妻であった女性は だいかん。

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日本史 高校生

どこのカッコでもいいので分かるのがあれば教えてください🙇🏻‍♀️

1069年 1086年 1156年 (1 1159年 (2 1167年 (3 ),太政大臣になる 1180年 以仁王・源頼政の挙兵。 (^ 平清盛 (5 に遷都 1183年 平氏の都落ち 年 壇の浦の戦い,平氏滅亡。 (^ ), (7 1189年 (4 ), 藤原泰衡を倒し、奥州平定 )年(4 1219年 (9 1221年 (10 1225年 北条時房, 連署となる 1225年 北条泰時, (11 )設置 1232年 北条泰時, (12 1249年 北条時頼 (13 衆設置 1274年 元・高麗連合軍, 九州に来襲― (14 1281年 元・高麗連合軍, 再び来襲― ( 15 1297年 1324年 1325年 1331年 19 )年 1334年 1335年 1336年 1338年 1342年 1352年 1378年 1391年 (6 後三条天皇, 荘園整理のため記録荘園券契所を設置 白河天皇, 上皇となり院政を開始 25 の乱。 武士の力が政局を左右 の乱。平氏政権の成立 ), 伊豆で挙兵 ), 征夷大将軍となる (鎌倉幕府成立) 暗殺, 源氏は3代で滅亡 の乱,3上皇配流。 六波羅探題の設置 )を制定 (最初の体系的武家法典) の役 の役 )発布 天皇の討幕計画発覚 天皇の親政 (建武の新政 ) )を設置 御家人救済のため、永仁の (16 正中の変, (17 幕府, (18 船を元へ派遣 元弘の変(17 ) 天皇隠岐に配流 (~32) 鎌倉幕府滅亡 (17 北条時行による中先代の乱 足利尊氏入京, (20 を発表。 (17 天皇, 吉野に脱出 足利尊氏,(21 になる 幕府, (22 船を元に派遣 足利尊氏, 半済令を出す ( 23 ),室町に花の御所を造営(室町幕府の成立 ) 山名氏清の挙兵ー (24 の乱 南北朝の合一 1399年 大内義弘の挙兵ー ( 26 の乱 27 年 (23), 筑紫商人肥富僧祖何を明に派遣 ( 日明国交開始

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日本史 高校生

高2 日本史 鎌倉時代 明日のテストの対策プリントです 答えを配布してくれなかったので、解答を教えてください!!!! 大門1だけとか、少しでも助かります😭

く鎌倉時代プレテスト> 1ほに 「次の文章を読んて, ( 1 )~( 15 )に適当な語句を下の語群から記号で選び、あとの問いにも答えなさい。 平清盛が後白河法皇を幽閉し,1180年に孫の( 1 )天皇を位につけると, 地方の武士団や中央の貴族·大寺院の中には, 平氏の専制政治に 対する不満がうずまき始めた。この情勢をみた後白河法皇の皇子( 2 )と,畿内に基盤をもつ源氏の( 3 )は,平氏打倒の兵をあげ,挙兵を呼 びかける(2 )の命令が諸国の武士に伝えられた。 これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ちあがり,つづいて伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた(4 )をはじ め,各地の武士団が挙兵して,ついに内乱は全国的に広がり, 5年にわたって争乱が続いた。 平氏は当初,都を( 5 )に移した。( 5 )は近くに良港( 6 )があり, 瀬戸内海支配のための平氏の拠点であったが,この遷都には大寺院や貴 族たちが反対したため,約半年間でまた京都に戻し,平氏は機内を中心とする支配を固めてこれらの動きに対応した。しかし,清盛の突然の死 や,畿内西国を中心とする( 7 )の飢僅などで平氏の基盤は弱体化し, I183年,北陸で( 4 )に敗北すると,平氏は( 1 )天皇を奉じて西国 に都落ちした。その( 4 )を,院と結んだ源頼朝は弟の( 8 ) 義経らの軍を派遣して減ぼすと,さらに平氏と戦い,摂津の( 9 ),讃岐の( 10 ) の合戦を経て,ついに1185年に( 11 )の壇の浦で平氏を滅亡させた。 その後,頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼすと,I190年には上洛して( 12 )となり, I192年,後白河法皇の死後に は,征夷大将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代と呼んでいる。 幕府の支配機構は,簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として,御家人を組織し統制する( 13 ),一般政務や財政事務をつかさ どる( 14 )(初めは②公文所), ③裁判事務を担当する( 15 )などがおかれ,京都からまねいた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補 佐した。 地方には@守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に一人ずつ, 主として東国出身の有力御家人が任命されて,⑤大犯三カ条などの 職務を任とし,国内の御家人を指揮して平時には治安の維持と警察権の行使に当たり,戦時には国内の武士を統率した。また在庁官人を支配 し,とくに東国では国街の行政事務を引き継いで, 地方行政官としての役割も果たした。 地頭は御家人の中から任命され,任務は年貢の徴収·納人と土地の管理および治安維持であった。それまでの下司などの荘官の多くは,新た に頼朝から任命を受けた地頭となり, 広く御家人たちの権利が保障された。 《語群》 ア,源範頼 イ,源頼政 ウ, 源頼家 エ,源義仲 オ,以仁王 カ,護良親王 キ, 高倉天皇 ク,安徳 ケ,右近衛大将 コ,太政大臣 サ,平城京 シ, 福原京 ス,養和 セ,天明 ソ,富士川川 タ,長門 チ,屋島 ツ,ーの谷 テ,問注所 ト, 政所 ナ,京都守護 ニ,侍所 ヌ,大輪田泊 ネ,大宰府 問1 下線部のの公文所の初代長官(別当)となった人物名を答えなさい。 問2 下線部3の裁判事務を担当する初代長官(執事)となった人物名を答えなさい。 問3 下線部のの守護·地頭が設置された年代を,次の中から選び記号で答えなさい。 ア,I180年 イ, 1183年 ウ, I185年 エ,1188年 問4 下線部のの大犯三カ条としてあてはまるものを,次の中からすべて選び記号で答えなさい。 ア,諸国の御家人に天皇·院の御所を警護させる京都大番役の催促 イ,大宰府の監督 ウ,謀反人·殺害人の逮捕 エ,六波羅探題で,西国の御家人の統轄 2 次の文章の(1)~(10)の下線部分は,すべて誤っている。正しい語句を下の語群から記号で選び,( A )~( E )には適当な人名·語句を書 き入れ,あとの問いにも答えなさい。 幕府政治はすぐれた指導者である源頼朝が将軍独裁の体制で運営していたが,頼朝の死後,若い( A )と(1)義朝の時代になると,御家人中 心の政治を求める動きが強まった。それとともに有力な御家人のあいだで政治の主導権をめぐる激しい争いが続き, 多くの御家人が滅んでいっ た。その中で勢力をのばしてきたのが,伊豆の在庁官人出身の北条氏である。 1203年,頼朝の妻北条(2)時子の父である( B )は,将軍の( A )を廃し,弟の(1)を立てて幕府の実権を握った。この( B )の地位は執権と 呼ばれて,子の義時に継承されたが,さらに義時は,侍所の長官であった(3)大江広元を滅ぼし,政所と侍所の別当を兼ねてその地位を固めた。 これ以後,執権は北条氏一族のあいだで世襲されるようになっていった。 京都の朝廷では, 幕府の成立と勢力の拡大に直面して,これまでの朝廷の政治の立直しがおこなわれた。その中心にあったのが後鳥羽上皇で ある。上皇は,分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめるとともに,新たに(4)滝口の武士をおいて軍事カの増強をはかるなど院政を 強化し,幕府と対決して朝廷の勢力を挽回する動きを強めた。 その中で1219年,上皇との連携をはかっていた将軍(1)が( A )の遺児(5)千幡に暗殺される事件がおきると,これをきっかけに,朝幕関係が 不安定になり,上皇は,畿内·西国の武士や大寺院の僧兵,さらに北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて,ついに の北条義時追討の兵をあげた。 しかし,上皇側の期待に反して,東国武士の大多数は源頼朝の妻の呼びかけに応じて結集し,戦いにのぞんだ。幕府は,義時の子(6)為朝,弟 の時房らの率いる軍を送り京都を攻めた結果,1カ月ののち,戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり,の3上皇を配流した。これが( C )である。 乱後,幕府は皇位の継承に介入するとともに,京都には新たに( D )をおいて,朝廷を監視し,京都の内外の警備,および西国の統轄に当たら

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