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アメリカのケネ
ディ大統領
( 1917~63)
どうしてキュ
レーバに基地を造
入ったのかな。
5 緊張緩和と
日本外交
●アジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、
インドなどの提案で29か国が参加し、インド
ネシアのバンドンで開かれました。
■友好の記念として中国からおくられたパ
都野動物園
を見物する人々 ( 東京都
年11月5日)
にっちゅう
5日中平和友好条約
—ていく。
ごい
条 両締約国は、主権及び領土保全
相互尊重 相互不可侵内政に対す
互木渉 平等及び互恵並びに平
共存の諸原則の基礎の上に、両国間
■久的な平和友好関係を発展させる
とする。
(部分)
ほっぽうりょうと
れん
き日本は, 北方領土について日本固
であると主張しましたが、ソ連が応
ため, 平和条約を結ぶことができ
た。 p.253
現代の日本と世界
ソ連のフルシチ
フ首相
(1894~1971)
キューバ危機 キューバでは,1959年
に革命が起こり、 アメリカに協力的な政権
(p.246 ) がたおされていました。 ソ連が、
キューバに核ミサイル基地を建設し、写真
のようにミサイルを運びこむと、アメリカ
は海上封頭にふみ切り、核兵器による全面
戦争の瀬戸際にまで至りました。
緊張緩和が進展する中で、 日本はどのような外交関係を結んでいったのでし
しょうか。
冷戦下の国際的な緊張は, 1950年代半ばから
次第に緩和されていきました。 植民地支配か
緊張緩和の進展
ら独立した国々の多くは,1955(昭和30)年のアジア・アフリカ会議
うった
に見られるように,平和共存を訴えました。
2 u
1962年, キューバ危機が米ソ間の核戦争が起こる寸前で解決。
されると、緊張緩和が本格化しました。 西ヨーロッパ諸国は、経
済統合を進め, 1967年にヨーロッパ共同体(EC) を設立する一方、
1970年代前半には東ヨーロッパ諸国との関係を改善しました。
広がる日本の
外交関係
中ソの支援を受ける北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線と、
せんそう 67
アメリカが戦ったベトナム戦争の際には,世界各地で反戦運動が 0
ちゅうごく
高まりました。 アメリカが中国との関係を改善し, 1973年にベト
てっぺい
ナムから撤兵すると, 緊張緩和はアジアにも広がりました。
らの独立
北緯17F
ナムと.
しまし
じんえい
サンフランシスコ平和条約で西側陣営の一員
として独立を回復した日本は, 緊張緩和が進
む中,課題として残されていた東側陣営やアジアの国々との外交 15
関係を築いていきました。
はとやまいちろう
にっ きょうどうせんげん
1956年, 鳩山一郎内閣によって日ソ共同宣言が調印され, ソ
連との国交が回復しました。 同年, 日本はソ連の支持も受けて国
p.278
連に加盟し、 国際社会に復帰しました。
世紀 BCAD.1 23 4 5 6 7 8 9
この見開きの時期▼
19
15 16 17 18
力を強
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