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現代文 高校生

私は国語がとても苦手で、1番最後の写真の問題が分かりませんでした🥲🥲🥲 どなたか答えを教えていただけると嬉しいです🥲🥲 文学国語 高2です。

s c 無双窓 一定の間隔で 小池昌代 光の窓 家の雨戸には、横並びに五つか六つ、細長い小窓が付いていた。 全体を覆う戸板が あって、それをずらすことで開閉できる。 雨戸を閉めても、外の様子をのぞくことができ るし、換気の役目も果たしていただろう。 こういう窓を「無双窓」とよぶというのは、後 になって知ったことだ。 無双窓は子供部屋にもあった。 私と妹は、その六畳ほどの狭い和室で寝起きし、宿題も やるというふうだった。 以前は嫁ぐ前の叔母姉妹の部屋だった。 戸板の微妙なずれ方によって、朝、そこから、 まぶしい光の侵入がある。 暗闇の中に差 し込む光の模様は、一日として同じことはなかった。 「光のトンネルの中に浮かび上がる、きらきらと舞う無数のほこり。 それがおもしろくて いつまでも見ている。 そんな子供はどんな時代にもいるはずだ。 私は、あのとき何を見ていたのか。舞うほこりに見とれていたのか。 いや、光によって 照らし出されたものよりも、通過する光そのもの、光の「働き」のほうに魅せられたので はなかったか。 見るとは実に不思議なことだ。 視覚を通して何かを「見る」とき、私たちはいったい何 を見ているのだろう。 木だ、空だ、花だと、一つ一つ認識しながら見る場合はいい。そう ではなく、目を開けて何かを見ていても、頭は別のことを考えているということがある。 例えば壁の染みに、染みから思起された全く別の、過去のある出来事を見ているというこ 視覚の力は圧倒的だが、ほかの感覚に引きずられるとき、目を開けていながら、視界が 空っぽになり、見えている前の風景を見ていないということにもなるのはおもしろい それでも、目が見える場合には、どうしたって見えてしまうし、見てしまうのだから、 その経験は長くは続かない。それが大人の肉体である。 今、私は見ている。 見ている私が いる、というふうに自意識も動き出してしまう。 子供の頃はそうではなかった。視覚も覚も味覚も触覚も、五感がもっと と溶け合っ ていて、もっと放心してものを見ていた。我を忘れて、一個の感覚の器として、世界の中 に一人あった。 「からだ」は泥のようになまめかしい。 取り付けた格子の内側 可動式の格 子板を取り付け、開 閉できるようにした

未解決 回答数: 1
現代文 高校生

この問題の答えを教えてください🙇‍♀️

Since 1994 N TURITORY 【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点) 知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。 しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。 町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、 案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。 知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る 道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。 1 道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。 外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。 初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩 くのだ。 以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何 度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅 まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。 わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。 祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。 行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途 上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。 子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし まったのであった。 気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分 で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。 こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。 今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共 鳴する。 ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思 & e 1

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現代文 高校生

問5が難しいです。 どういうふうに考えればいいのか教えてほしいです🙇‍♂️

小池昌代 背·背なか·背後 待ち合わせ場所にすでに相手が到着していて、しかもそのひとが後ろ向きに立っていたような場合、一瞬、どんなふ うに声をかけようかと、迷いながら背後からそのひとに近づいていく。 前からだったら、目と目があえば、それで済む。待った? 久しぶりね、さあ、行こう 会話は船のように自然と ピトの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう。つきあってきたのは、どのひととも、彼らの正面ば かりのような気がして、心もとなく背中をナガめやる。 そのひとがくるっと後ろを振り向けば、ただちにわたしは、そのひとの世界に合流できるのに、後ろ姿は閉ざされた そのままわたしが行きすぎれば、そのひととわたしは永遠に交わらないまま、これを最後に別れてしまうかもしれな 3 待ち合わせの約束東を一方的に破棄するのだから、これは裏切りだが、出会うことは常におそろしい衝突でもあるから 衝突をさけて、ひとの背後を、ひたすら逃げ続けるという生き方もある。例えばハンザイ者か逃亡者のように そういう考えが、ひとの背を見ながら、わたしのなかにひょこっと現れる。そのことはわたしを少し驚かす。わたし は何かを恐れている。 そもそも背中は、そのひとの無意識があふれているように感じられる場所である。だから誰かの後ろ姿を見るとき、 見てはならないものを見たようで後ろめたい感じを覚えることもある。 背中の周りに広がっているのが、そのひとの「背後」と呼ばれる空間だ。自分の視線がまったく届かない、見えない 後ろ半分のこと。わたしはこの空間になぜか惹かれる。見えない、というところに惹かれているのだろうか ひとは自分の背後の世界で、何が起きているのか知り得ない。だから背後は、そのひとの後ろに広がっているのに そのひとだけをユイイツ、排除して広がっている。 背後という空間から、その人自身が排除されているといっても、それはひとと背後が無関係であるということではな い。振り返りさえすれば、いつでもひとは、自分の背後がそこにあることに気づく。もちろん、振り返ったのち一瞬に して、そこは背後ではなくなるわけだが、先ほどまで背後としてあった気配は、すぐには消えないで残っている。 そのとき今度は正面であったところが、自分の背後と化している。しかし意識が及ぶのは、常に眼前の世界で、背後 のことはソクザに忘れられる。視線の行くところが意識の向くところだ。だから目を開けて背後を考えるのは、開いて いる目を、ただの「穴」とすることに他ならない。その穴のなかを虚しい風が通り抜けていく。背後を思うとき、自分 が、がらんどうの頭蓋骨になったような気がする。 ひとと話をしていて話の途中で、そのひとの背後にふと視線が及ぶことがある。 何かとても大切なことを話しているときに、後ろで樹木がはげしく風にユられていたり、夕日がまぶしく差し込んで いたり、鳥が落ちてきたり、滝が流れていたり、不吉な雲が流れていたりするのに目がとまる。 不思議な感じがする。こちら側の世界と触れ合わない、もうひとつの世界が同時進行で存在している。そのことに気 づくとおそろしくなる。背後とはまるで、彼岸のようではないか。 そしてわたしが見ることができるのは、常に、他者の背後ばかりだ。見えるのが、いつも、ひとの死ばかりであると いうことと、これはまったく同じ構造。 自分の死が見えないように、自分の背後は見えないし、そもそもわたしは、自分の後ろ側など、まるで考えもせずに 暮らしている。見ることができないし、見る必要もないのだ ただし、着物を着て、希の具合を見たいときなど、あわせ鏡で確認することはある。このことを考えると、やっぱり 鏡とは、魔境へひとを誘う魔の道具であると思う。しかも、背後へは、この道具をダプルで使用しなければならないの だから、ひとが自分の背後へ到達することの、おそろしさと困難さがわかろうというものだ ともかく、背後は死角である。 死角を衝かれる時、ひとは驚く。わたしが冒頭に、後ろからどう、ひとに声をかけようかと迷ったのも、相手をびっ くりさせないためにはどうするのがいいのか、という思いもあった。 そもそも身体に触れないで、声だけでそのひとを振り向かせることはできるのだろうか。

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