学年

質問の種類

現代文 高校生

問4.5.6がわかりません、 もしよろしければお力を貸していただけたら幸いです よろしくお願いします🙇‍♀️

主題研究 うちだ たつる 電子書籍と紙の本 内田樹 電子書籍と紙の本の違いとは ①1 電子書籍の第一の難点は「どこを読んで わからないことである。 いわゆる たしかに頁をめくると「ぱらり」と音がしたり、貢がたわんだり、反対側の活字が透けて見えたりと、 紙の本を読んでいる状態をギジ的には経験できる。だが、残り何であるかかかからない。いったい自分 物語の中のどの部分を、どの方向に向かって読み進んでいるのかがわからない。 ③ 自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは(あまり指摘する人がいないが) 読書する場合に必須の作業である。というのは、ある文章が冒頭近くにあるか、中程にあるか、巻末が迫 ったところにあるかによって、その文章の解釈可能性に大きな差異が生じるからである。 ②⑨ 例えば、推理小説の場合、「いかにも怪しげな人物」が物語のはじめの方に登場してきた場合には、ある 程度小説を読み慣れた読者は「この人は犯人ではなく、 A 「レッドヘリング 読者を誤った推理に導 くための偽りの手がかり)」である可能性が高い」という推論を行う。 作者の方は読者をミスリードするた めに次々と「レッドヘリング」 を投じてくる。 「残り頁数」はその真贋判定の重要な手がかりである。 「残 り頁数」がある限度を切ると、そこから後は「読者をミスリードするようなトリック」はもう出てこない からである。そういう「ポイント・オブ・ノー・リターン」が存在する。グラウンドレベルで読み進んで いる自分を読み始めから読み終わりまでの全行程を上空から鳥瞰している仮想的視座」からスキャンす る力がなければ、 読書を享受するということは不可能なのである。その消息は音楽を聴く場合と 古文で手紙 そもそも 変わらない。 ⑤ 音楽というのは、 「もう聞こえない音」がまだ聞こえ、「まだ聞こえない音」がもう聞こえるという、時 間意識の拡大を要求する。私たちは 当たり前のように「センリツ」とか「リズム」とかいう言葉 を口にしているが、これは「もう聞こえない音」を記憶によって、「まだ聞こえない音」を先駆的直感によ って、現在に引き寄せることで経験しているから言えることなのである。 そして、この音楽的経験は、「も う聞こえない音」「まだ聞こえない音」の範囲が広ければ広いほど深く厚みのあるものになる。 現在の前後 で必須のマッピング能力 【転】 読書とは 数秒の音しか再生できないというショート・メモリーの聴き手と、数十分の交響楽の最初から今までのす べての楽音を今再生でき、それを踏まえてこれから後の曲想の展開を予期しうる聴き手では、同一の楽音 から引き出すことのできる快楽の質が違う。 ・「読みつつある私」と「読み終えた私」 との共同作業 ・「読み終えた私」 の愉悦を少しずつ に先取りする ⑥ 私はその能力を「マッピング(地図上に自分の位置を記すこと)」と呼ぶのであるが、これは単に読書や器 音楽鑑賞に止まらず、人間が生きてゆくうえで必須の能力なのである。 【結】 電子書籍にないもの ⑦「おのれ自身を含む風景を鳥瞰する力」。ヘーゲルだったらそれを「自己意識」と呼ぶだろうし、フッサ ルだったら「超越論的主観性」と呼ぶだろう。 別に何と呼んでも構わないそれは人間が生きる上で のフカケツの能力である。 そして、読書はその力を涵養するための好個の機会なのである。 「読み終えた私」への小刻みな接近感 かんよう ばステーション [2点×3] ●空欄に適切な語句を入れよ。 ミスリード・誤った方向に人を導 …ほんものと、にせもの。 私たちは物語を読んでいるときに、つねに「物語を読み終えた未来の私」という仮想的な消失点を想定 している。 読書とは、「読みつつある私」と、物語を最後まで読み終え、すべての人物のすべての言動の、 すべての謎めいた伏線の「ほんとうの意味」を理解した「読み終えた私」との共同作業なのである。紙の 本では頁をめくるごとに、「読みつつある私」と「読み終えた私」の距離が縮まり、それと同時に「読み終 えた私」の感じている愉悦が少しずつ先駆的に先取りされる。 そして、最後の一頁の最後の一行を読み終 えた瞬間に、ちょうど山の両側からトンネルを掘り進んだ工夫たちが暗黒の一点で出会って、そこに一気 に新鮮な空気が流れ込むように、「読みつつある私」は「読み終えた私」 と出会う。 読書というのは、その ようなX プロセスなのである。 880 必須・・・なくてはならないこと。 酒・・・水がしみこむように、少しず つ自然に育てること。 ●次の語の類義語を語群から選べ。 鳥瞰俯瞰 壮観 凝視 ⑨ 電子書籍はこの「読み終えた私」 への小刻みな接近感を読者にもたらすことができない。 紙の本という 三次元的実体を相手にしているときには、「物語の終わりの接近」は指先が押さえている残り頁の厚みがし だいに減じてゆくという身体実感によって連続的に告知されている。だが、電子書籍ではそれがない。仮 に余白に「残り頁数」がデジタル表示されていても、電子書籍読書では、「読み終えた私」という仮想的存 にはパーティーへの招待状が送られていないのである。 ●「先駆」を含む次の文から、用法 の誤っているものを選べ。 ア 先駆的なテクノロジー。 イ 医療分野の研究の先駆。 ウ先駆的に浪費する。 電子書籍と紙の本 えする、 @ 45 海 本文ダイジェスト ●空欄にあてはまる語句を抜き出せ ~ 【起】 電子書籍の難点 どこを読んでいるかわからないこと 【承】 読書と音楽鑑賞に必要な能力 全行程を鳥瞰して いる仮想的視座 もう聞こえな (本文・こ ●読書を享受すること 音楽を聴くこと い音(記憶) くこと。 現在 [2点×2] 読み進んでいる 自分 まだ聞こえな い音(直感) 間が生きていく うえ LO

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

この問題の答えを教えてください🙇‍♀️

Since 1994 N TURITORY 【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点) 知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。 しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。 町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、 案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。 知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る 道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。 1 道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。 外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。 初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩 くのだ。 以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何 度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅 まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。 わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。 祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。 行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途 上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。 子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし まったのであった。 気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分 で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。 こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。 今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共 鳴する。 ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思 & e 1

回答募集中 回答数: 0
1/4