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世界史 高校生

世界史の論述です! 簡潔にで良いので わかる方いくつかお願いします!

(1) ゲルマン人の大移動は、その後の西欧社会にどのような 影響を及ぼしたか。 【オドアケル・ローマ教皇】 (2) フランク国王とローマ教皇との協力関係の推移につい て、8世紀の状況を述べよ。 【カール=マルテル・教皇領】 (3) 中世ヨーロッパ封建社会の特徴を説明せよ。 【双務的関 係・農奴】 (4) ノルマン人の移動は各地域にどのような影響を及ぼした か。【ロロ・リューリク】 (5)神聖ローマ帝国における皇帝権の推移について、10世紀 から16世紀に至る状況を説明せよ。 【オットー1世・カール 4世】 (6) 中世ヨーロッパにおける教皇権の盛衰について説明せ よ。 【カノッサ・アヴィニョン】 (7)十字軍がはじまるに至る経緯を述べよ。 【巡礼・セルジ ューク朝】 (8) 十字軍がその後のヨーロッパ社会をどのように変質させ たか説明せよ。 【東方貿易 貨幣地代】 (9) 中世都市はどのように自治権を獲得し行使したか説明せ よ。【特許状・ギルド】 (10) 英仏王家による領土問題の経緯を述べよ。 【ジョン・百 年戦争】 (11) イングランドにおける議会の成立の経緯を述べよ。 【マ グナ=カルタ ・ 模範議会】 (12)イスラーム文化はどのようにヨーロッパ中世文化・ル ネサンスに影響を及ぼしたか。 【イブン=ルシュド・トマス =アクィナス】 (13) ルネサンスとはどのような動きか説明せよ。 【ギリシ ア・ヒューマニズム】 (14)大航海時代がはじまる背景にはどのような状況があっ たか、説明せよ。 【香辛料 レコンキスタ】 (15) 大航海時代はアジア・ヨーロッパ・アメリカにどのよ うな変化をもたらしたか、 説明せよ。 【アカプルコ 価格革 命】 ●

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世界史 高校生

世界史についての問題です🙇🏻‍♀️💦 少し枠が多めなのですがこの空欄の答えが分かる方いらっしゃいましたら答え教えて頂きたいです;;

解答番号 51~60 A 前6世紀頃から, アルプス以北のヨーロッパに広く住みついた民族は何か。 51 ゲルマン人の多くが異端のキリスト教アリウス派を信仰していたのに対し, 正統派であるアタナシウス派に改宗し たフランク王国のクローヴィスは何家の出身か。 52 C ローマ教皇を圧迫するランゴバルド王国を攻撃し、奪ったラヴェンナ地方を教皇に寄進してローマ教皇領の起源を つくった, フランク王国の国王は誰か。 53 D ノルマン人はヴァイキングとして恐れられていたが, 10世紀初め北フランスに上陸してノルマンディー公国を建国 した人物は誰か。 54 E 中世ヨーロッパの農民は農奴と呼ばれる不自由な身分であったが, その荘園の農奴が負担しなければならなかった 義務のうち、領主直営地での労働は何と呼ばれるか。 55 F ビザンツ帝国において, 貴族が農奴を使って経営する大土地所有制が拡大した。 この ような中, 11世紀末以降, 皇帝が中央集権を維持するために軍役奉仕と引きかえに貴 族に領地を与えた制度を何と言うか。 56 14世紀以来のイギリスのウィクリフやベーメンのフスらによる教会批判を収拾するた め、神聖ローマ皇帝の提唱によって1414年から18年まで開かれた会議は何か。 57 H 百年戦争において, 崩壊寸前の危機にあったフランスで,国を救えとの神の託宣を信 じてオルレアンの包囲を破り, イギリス軍を大敗させた農民の娘は誰か。 58-1-58-2 I 「大空位時代」 ののちに皇帝となった人物で、 神聖ローマ皇帝選挙の手続きを定め皇 帝選出権を聖俗の七選帝侯に認めた 「金印勅書」を発布した人物名。 59 右の写真はケルン大聖堂である。 ここに見られる教会建築は, 頭部のとがった尖頭ア ーチと高い塔を特徴とし, 窓にはステンドグラスが飾られた。 このような建築様式を 何と言うか。 60 58・158・2は完全解答

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世界史 高校生

世界史B【至急】 ()の中に入る語句を教えてください‼️75問もあって申し訳ないのですが、よろしくお願いします🙇‍♀️🙏

次の文章の )に適する語句を入れ、 ノ帝の死後、( 2 ) 年にローマ帝国は東西に分裂した。東ローマ帝国は、別名をビザン H国のといい、( 3 ) 年にオスマン皇帝に減ぼされるまで長く存続した。一方西ローマ帝国は 4)年、ゲルマン人傭兵隊長( 5 )によって滅ぼされた。( 6 )人の侵入により、(7 ) 、グルマン人②の一派 ( 8 ) 族が、ライン川·( 9 ) 川を越えてローマ領内に移住してきた 天機に大移動を始めた。西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパにはゲルマン人国家が成立して たが、その中でも強勢を誇ったのが、フランク王国である。フランク王国では、481年、( 10 ) がメロヴィング朝を創始し、( 11 ) 派に改宗したことで、 発展の基礎礎を固めた。 メロヴィング朝では次第に家政の長官である宮宰が力を持ち、 特に( 12 )は732年、( 13 ) の戦いでイスラム勢力③を破り、 実権を握った。その子、( 14 ) は教皇の支持を得て、メロヴィン グ朝を廃し、( 15 ) 朝を創始した。教皇は、ビザンツ皇帝( 16 9と、やむをえない事情④からそれに対抗せざるを得なかったが、西ローマ帝国滅亡以来、政治的保 護者を失っていたため、フランク王国との結びつきを求め、(15) 朝を承認した。 その見返りに教皇は (14)から( )が726年に( 17 ) を出 18 )地方を寄進され、これ以来教皇領という経済的基盤を得た。 さらに教皇( 19 ) は、(14)の子カール大帝⑤を ( 20 ) 年に戴冠した。このできごとは、政治的には西ヨーロッパ世 界の再統合、宗教的には東西教会の分離、文化的にはローマ·キリスト教·ゲルマンの文化を融合さ せたという意義がある。 カール大帝の死後、843年に( 21 ) 条約、870年に( 22 ) 条約が結ばれ、フランク王国 は分裂した。西フランク王国は後のフランスとなり、東フランク王国は後のドイツのもととなり、中 部フランク王国は後のイタリアのもととなった。各国で (15) 家が断絶すると、イタリア地方では都 市·諸侯の勢力が分立する状態となり⑥、同じく西フランク王国では ( 23 ) 伯ユーグ=カペーが カペー朝を創始したが、諸侯との力の差はなく、王権は弱体であった。 この頃のヨーロッパは、ノルマン人⑦やアジア人·スラブ人®、イスラム勢力などの外敵の侵入を 受けるようになった。中世ヨーロッパではローマの ( 24 ) 制とゲルマンの( 25 ) 制を基礎と して成立した封建制が成立し、 そのもとで主従関係を結ぶ国王や諸侯などは荘園③領主でもあった。 このような社会を封建社会といい、その性格は時代とともに変化していった。 一方東フランクでは、919年から( 26 ) 朝が始まり、第2代の王( 27 )は955年( 28 ) の戦いで( 29 ) 人を倒すなどした功績が認められ、( 30 )年に戴冠された。これにより ( 31 ) 帝国が成立した。皇帝は、聖職叙任権を握って教会組織を統治に利用する帝国教会政策を行い、 また その強化のために ( 32 ) 政策と呼ばれる遠征を行った。皇帝が (32) 政策に没頭することは、帝国 内における諸侯の台頭を招き、 帝国の分裂、 衰退へとつながった。 一方9世紀から10世紀にかけて、カトリック教会@では、( 33 ) や妻帯に象徴されるような腐 敗、世俗化が進んでいた。 この状況を刷新すべく、フランス中部で開墾運動を行った 道会や托鉢修道会などが活動する中、 改革の中心となったのが、 ( 35 道院出身の(36 ) は、聖職叙任権を教会に譲るよう、皇帝( 37 ).に求めたが、 応じなかった。 そのため、( 38 ) 年教皇は、皇帝を破門して屈服させた。このできごとを ( 39 ) という。 聖職 叙任権闘争は1 122年 ( 40 ) により終結した。 このような教皇権の拡大は、 耕地を三分して春耕地· 秋耕地·休耕地とする ( 41 ) や重量有輪率 などの普及によって、 ヨーロッパの農業生産力が向上したことなどに伴い、 「キリスト教世界の拡大」 という動きへとつながっていく。 例えば ンキス②タがあるが、中でも1096年教皇 ( 43 ) が ( 44 ) 公会議で提唱したことにはじま る十字軍はその象徴といえる。第1回十字軍では聖地をイスラム教徒から奪還し、( 45 ) 王国が建 国された。しかし、( 46 ) 朝のサラディンによって、反撃を受けたため、 第2回· 第3回の十字軍 が編成された。 特に第3回十字軍では、イギリス王( 47 )、フランス王( 48 )、皇帝 ( 4 )が軍を率い、十字軍の最高潮期と言える。一方第4回十字軍は、 ( 50 ) 商人の策謀により、 商敵である ( 51 ) を占領し、( 52 ) 帝国を建設しており、 宗教的性格は弱まった。 第5回 十字軍は皇帝 ( 34 )派修 )修道院であった。(35) 修 42 )川以東への東方植民①、教会の開墾運動、レ=コ 9 53 )によって行われ®、 外交交渉により聖地を一時奪回した。 第6·7回十字軍 フィリップ

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