世界史
高校生

世界史B【至急】
()の中に入る語句を教えてください‼️75問もあって申し訳ないのですが、よろしくお願いします🙇‍♀️🙏

次の文章の )に適する語句を入れ、 ノ帝の死後、( 2 ) 年にローマ帝国は東西に分裂した。東ローマ帝国は、別名をビザン H国のといい、( 3 ) 年にオスマン皇帝に減ぼされるまで長く存続した。一方西ローマ帝国は 4)年、ゲルマン人傭兵隊長( 5 )によって滅ぼされた。( 6 )人の侵入により、(7 ) 、グルマン人②の一派 ( 8 ) 族が、ライン川·( 9 ) 川を越えてローマ領内に移住してきた 天機に大移動を始めた。西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパにはゲルマン人国家が成立して たが、その中でも強勢を誇ったのが、フランク王国である。フランク王国では、481年、( 10 ) がメロヴィング朝を創始し、( 11 ) 派に改宗したことで、 発展の基礎礎を固めた。 メロヴィング朝では次第に家政の長官である宮宰が力を持ち、 特に( 12 )は732年、( 13 ) の戦いでイスラム勢力③を破り、 実権を握った。その子、( 14 ) は教皇の支持を得て、メロヴィン グ朝を廃し、( 15 ) 朝を創始した。教皇は、ビザンツ皇帝( 16 9と、やむをえない事情④からそれに対抗せざるを得なかったが、西ローマ帝国滅亡以来、政治的保 護者を失っていたため、フランク王国との結びつきを求め、(15) 朝を承認した。 その見返りに教皇は (14)から( )が726年に( 17 ) を出 18 )地方を寄進され、これ以来教皇領という経済的基盤を得た。 さらに教皇( 19 ) は、(14)の子カール大帝⑤を ( 20 ) 年に戴冠した。このできごとは、政治的には西ヨーロッパ世 界の再統合、宗教的には東西教会の分離、文化的にはローマ·キリスト教·ゲルマンの文化を融合さ せたという意義がある。 カール大帝の死後、843年に( 21 ) 条約、870年に( 22 ) 条約が結ばれ、フランク王国 は分裂した。西フランク王国は後のフランスとなり、東フランク王国は後のドイツのもととなり、中 部フランク王国は後のイタリアのもととなった。各国で (15) 家が断絶すると、イタリア地方では都 市·諸侯の勢力が分立する状態となり⑥、同じく西フランク王国では ( 23 ) 伯ユーグ=カペーが カペー朝を創始したが、諸侯との力の差はなく、王権は弱体であった。 この頃のヨーロッパは、ノルマン人⑦やアジア人·スラブ人®、イスラム勢力などの外敵の侵入を 受けるようになった。中世ヨーロッパではローマの ( 24 ) 制とゲルマンの( 25 ) 制を基礎と して成立した封建制が成立し、 そのもとで主従関係を結ぶ国王や諸侯などは荘園③領主でもあった。 このような社会を封建社会といい、その性格は時代とともに変化していった。 一方東フランクでは、919年から( 26 ) 朝が始まり、第2代の王( 27 )は955年( 28 ) の戦いで( 29 ) 人を倒すなどした功績が認められ、( 30 )年に戴冠された。これにより ( 31 ) 帝国が成立した。皇帝は、聖職叙任権を握って教会組織を統治に利用する帝国教会政策を行い、 また その強化のために ( 32 ) 政策と呼ばれる遠征を行った。皇帝が (32) 政策に没頭することは、帝国 内における諸侯の台頭を招き、 帝国の分裂、 衰退へとつながった。 一方9世紀から10世紀にかけて、カトリック教会@では、( 33 ) や妻帯に象徴されるような腐 敗、世俗化が進んでいた。 この状況を刷新すべく、フランス中部で開墾運動を行った 道会や托鉢修道会などが活動する中、 改革の中心となったのが、 ( 35 道院出身の(36 ) は、聖職叙任権を教会に譲るよう、皇帝( 37 ).に求めたが、 応じなかった。 そのため、( 38 ) 年教皇は、皇帝を破門して屈服させた。このできごとを ( 39 ) という。 聖職 叙任権闘争は1 122年 ( 40 ) により終結した。 このような教皇権の拡大は、 耕地を三分して春耕地· 秋耕地·休耕地とする ( 41 ) や重量有輪率 などの普及によって、 ヨーロッパの農業生産力が向上したことなどに伴い、 「キリスト教世界の拡大」 という動きへとつながっていく。 例えば ンキス②タがあるが、中でも1096年教皇 ( 43 ) が ( 44 ) 公会議で提唱したことにはじま る十字軍はその象徴といえる。第1回十字軍では聖地をイスラム教徒から奪還し、( 45 ) 王国が建 国された。しかし、( 46 ) 朝のサラディンによって、反撃を受けたため、 第2回· 第3回の十字軍 が編成された。 特に第3回十字軍では、イギリス王( 47 )、フランス王( 48 )、皇帝 ( 4 )が軍を率い、十字軍の最高潮期と言える。一方第4回十字軍は、 ( 50 ) 商人の策謀により、 商敵である ( 51 ) を占領し、( 52 ) 帝国を建設しており、 宗教的性格は弱まった。 第5回 十字軍は皇帝 ( 34 )派修 )修道院であった。(35) 修 42 )川以東への東方植民①、教会の開墾運動、レ=コ 9 53 )によって行われ®、 外交交渉により聖地を一時奪回した。 第6·7回十字軍 フィリップ
はフランス王( 54 )が率いた④。 第4回十字軍を提唱した( 55 ) の時代、教皇権は絶頂期を迎えるが、十字軍のほとんどは失敗 であり、提唱者である教皇の権威は徐々に失墜していった。また十字軍の遠征により、ヨーロッパで は中央集権化が進んだ。これは軍を直接率いた王の権威が増し、一方長い従軍で疲弊した諸侯が没落 したためである。イギリス⑤.フランスでは、百年戦争⑥がそれを助長した。 このような状況を象徴するのが、( 56 ) 問題をめぐるフランス王( 57 ) と教皇( 58 ) と の対立である。 (57) は130 2年フランスの議会の起源である( 59 ) を招集して、各身分の支持 をとりつけると、( 60 ) 年、教皇を( 61 ) で捕囚して憤死させた。1309年には教皇庁がフ ランスの( 62 ) に強制的に移転された。これをヘブライ人の悲劇に例え、( 63 )という。また 1378年、イギリス王などの介入もあって、教皇がヨーロッパに3人存在することとなった。これ を( 64 )という。 この事態は皇帝 ( 65 ) が1414年に( 66 ) 公会議が開いて解決さ れたが、この会議ではイギリスの宗教改革者( 67 ) の影響を受けてベーメンで教会批判をした ( 68 )が火刑に処せられることも決まった。 また十字軍の遠征は交易路を発展させ、特に地中海貿易の発展は北イタリア諸都市の発展の、貨幣 経済·交換経済を進展させたB。 このように「王による中央集権化」 「交換経済の進展」「教会の権威失墜」 が進んだことで、「地方分 権」「自給自足経済」「教会の強権」 という特色を持つ封建社会は崩れていった。 王による中央集権化はイギリス·フランスなどでは顕著に見られたが、(31)帝国では、逆に皇帝が その権威を失っていった。( 69 )朝が断絶した後の1256年にはじまる実質的皇帝不在の( 7 0 )時代を経て、(71 )年には皇帝が(72 ) を発布して、七人の選帝侯によって皇帝が 選出されることとなった。このような大諸侯の権力拡大は、ドイツ@地方における領邦国家の分立を 招いた。 また14世紀末には、北欧にデンマーク女王 ( 73 ) を中心として、北ドイツの都市同盟 ( 7 4 )に対抗して同君連合 ( 75 ) が成立した。
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