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日本史 高校生

答えが分からないので教えてください

9 10 8 11 12 14 15 16 13 17 18 6 7 5 |本朝 (皇朝) 十二銭の一つ。 7世紀の富本銭に続いて、 1708年武蔵国より銅が献 上されたことで鋳造した。」 都からの使者や官人が. 使用する馬などを配備し た宿泊・休憩施設。 3 [条坊制」 東西南北を基盤目状に |区分した制度。 平城宮 1 2 うまかい 武智麻呂・房・孕谷・ まろ 麻呂の4兄弟。 藤原氏の 系譜である南家・北家・ 式家・京家の祖となった。 裏や、政務・儀礼を行っ だいごくでん ちょうどうい た大極殿 朝堂院, 官庁 が置かれた場所のこと。 4 14 だい 天皇の生活の場である内 V 原始・古代 平城京と政権の動揺 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 618 年, 唐は中国を統一して, アジアに大帝国を建設した。 A やくしん 国際都市として躍進した唐の都 ( 1 ) に, 日本は遣唐使 を派遣して多くの留学生や学問僧が渡航し、唐の先進的な (1) 710年, 藤原京から平城京に遷都して奈良時代を迎えた。 じょう 図Bの平城京図をみると、唐の都 ( 1 ) を参考にした条 政治制度・文化を日本にもたらした。 しかし、唐への渡航は そうなん 遭難が多く, 地図Aのような安全な北路で渡航したが,新羅 との関係悪化のために, 8世紀には危険な南路をとらざるを ひんぱん 得なかった。一方で,中国東北部の ( 2 ) とは使節の往来を頻繁に行い, 国交を結んだ。 B 平城宮 ぼうせい 坊制をもつ都市で、 中央を南北に走る ( 3 )を軸に東の 左京 西の右京にわけられ, 北部中央に平城宮が配置されて いたとわかる。 大安寺・薬師寺などの寺院も建立され,左京・ いちのつかさ 右京には市司が管理した官営の市が設置され、産物の売買が 唐 三条大路 四条大路 五条大路 六条大 一条北大路 西大寺・ 一条南大路 二条大路 七条大路 八条大路 九条大 さくぼう し、不比等の子である藤原四子の策謀で、当時左大臣であった 元正 4 ( 8 )を自殺に追い込み, 光明子を皇后に立てて政権を担 たちばなのもろえ 当した。 藤原四子の病死後, 皇族出身の 橘諸兄が( 9 ) きびのまきび んぼう の下で政権を担当し,唐から帰国した吉備真備と玄肪を起用し た。この起用に反発した ( 10 ) が九州で反乱をおこした が鎮圧され、この社会不安に (9) は恭仁京→ 難波宮→ なにわのみや しがらきのみや ちんごこっかしそう 紫香楽宮と遷都を繰り返し, 仏教の鎮護国家思想による国家 (13) (9) 北路 (12) 夫右 MILLI 京町 こくぶんじ こんりゅう ぞうりゅう 安定を図ろうと、国分寺建立の詔と 大仏造立の詔を出した。光 5" わどうかいちん(ほう) 行われた。物品の売買は, b 京畿内では和同開珎 の銭貨 が使用されたが,それ以外の地域ではなかなか流通しなかっ た。また,平城宮跡で発見された( 4 )により,身分による居住区分や宮廷生活の内容が 解明されている。 地方では、中央から派遣された国司が ( 5 )を拠点として地方政治を行い, かんどう えきろ 七道に沿って整備された官道(駅路)により中央と結ばれた。 そして, この官道には約16km 22 藤原 四兄弟 橘諸兄 坊坊坊坊 大大大 08 南路 230675 711 うまや ぐんけ ぐん ごとに駅家を設ける駅制を敷いた。さらに、地方豪族から任命された郡司が統治した郡家(郡 でんろ。 衙)が置かれ,伝路により国庁と結んで地方を統治し, 律令国家の形成を実現したのである。 また、支配が及んでいなかった東北地方の ( 6 ) の制圧にも乗り出し, 7世紀半ばに 旦 本海側に拠点を設けたのちに, 8世紀には太平洋側にも城柵や (5)を置いて軍事的な制 じょうさく はやと さつま おおすみ 圧を進めた。九州では、 南九州の隼人を制圧し、薩摩国・大隅国を設置して統治を進めていった。 (2) 1 西市 ふじわらのふひと 8世紀初頭、藤原未等は大宝律令や ( 7 )の編纂の中心となって律令制度を確立し, 藤原 仲麻呂 年 天皇家と密接に結びついて藤原氏の政界進出を築いた。 不比等天皇政権 の死後は、右の年表のように皇族と藤原氏が交互に政権を担当 元明 不比等 710 平塚京港郡 文武 701 大宝律令の完成 藤原 708 和同開珎の鋳造 することになり、皇族の(8) が右大臣に就任した。 しか 718 (7) の完成 大字 卍興福寺 元興寺 P2 大五六七 坊坊坊 大大 佐 20 CE 東市 坊坊坊坊 (8) 723 三世身法 AUSS 729 (8) の変 政治の内容 722 百万町歩開墾計画 | 光明子が皇后となる 740 九州で (10) の乱が発生 741 国分寺建立の詔 743 (15) の発布 大仏造立の詔 752 大仏開眼供養 757 (7)を施行 (11) の変 758 恵美押勝の名を賜る 764 恵美押勝の乱 766 道鏡が法王となる 769 宇佐八幡神託事件 藤原 770 道を左遷 百川ら かいげんくよう 平城京再遷都後は奈良で大仏造立を続け, 孝謙天皇時に大仏開眼供養を盛大に行った。藤原仲 こうみょうこうたいごう だて 麻呂が光明皇太后の後ろ盾で権力を握ると、橘諸兄の子 ( 11 ) が政変をおこすが失敗し, えみのおしかつ たまわ のちに即位した( 12 )から恵美押勝の名を賜って、権力を独占した。 しかし ( 12 )

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経営経済学 大学生・専門学校生・社会人

経済ミクロの問題です。 全くわからないので教えていただきたいです

第8回課題 ● 次の計算問題を解きなさい。 問題) ある企業の限界費用曲線は、 MC=3X という式になっている。 ただし、MCはこ の財を供給するための限界費用を表わし、Xは供給量を表 わす。 以下の設問に答えなさい。 (1) もしこの企業が完全競争的な企業であり、市場価格が30であれば、 この企業はこの財をどこま で供給するだろうか。 また、 そのような答を出したのはどのような理由によるかも記しなさい。 (2) この場合の企業の生産者余剰はいくつであろうか。 (3) ここでこの企業のこの財を生産するための固定費用が100であれば、 この企業はこの財を供給 するだろうか。 固定費用が300であればどうか。 ある消費財の需要関数が、 D=120-6p であり、この消費財の供給は独占企業によって行われているとする。この独占企業の総費用関数は、 TC=60+4X であるとする。 ここで、pは価格、 Dは需要量、TCは総費用、 Xは生産量 (供給量)である。 このとき、以下の問に答えよ。 問1)この独占企業の収入 (売上) と供給量の関係を表す式を求めよ。 問2) 独占企業の設定する価格と供給量を求めよ。 問3) 社会的総余剰を最大にする価格と供給量を求めよ。 ※ヒント・独占企業の利潤最大化条件はMR=MC、 社会的総余剰が最大化されるのは完全競争市場であり、 競争企業の利潤最大化条件はp=MCである。 また、この問題ではMC (TCをXで微分したもの)が定数と なる。

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歴史 中学生

歴史の問題です。わかる方いませんか(・ω・ = ・ω・)

51939年北関東で反乱を起こした人物 52 白河上皇が天皇の位を退いて上皇となって始めた政治 53 平清盛が源義朝を倒した戦い 54 平清盛が武士として初めてついた役職 55 平清盛が兵庫の港で貿易をした中国の国 56 源頼朝が国ごとに置いた役職 57 源頼朝が鎌倉幕府を開き、 1192年についた役職 58 後鳥羽上皇が執権北条義時を討伐するために起こした乱 59 57の後、京都に置かれ、朝廷の監視や西日本の御家人の統率を行った役所 60 御家人の政治の判断基準として、 北条泰時が定めた法律 61 北条氏が代々ついた将軍を補佐する役職 62 おなじ田畑で、交互に米と麦を作る耕作方法 63 交通の要所で特定の日に開かれた市 64 親鸞が開いた仏教の宗派 栄西や道元が宋から伝えた、 座禅によって自分の力でさとりを開こうとする 65 |教え 66 琵琶法師が語り伝えた、 平氏の興亡をつづった軍記物 67 東大寺南大門に置かれた運慶が作った彫刻 68 モンゴルの遊牧民を統一して帝国を建国した人物 6968の孫で国号を中国風の元に改めた人物 70 元軍が1274年に日本に襲来した出来事 71 元軍が1281年に日本に襲来した出来事 7270、71の出来事の総称 73 72 の時の鎌倉幕府の執権 74 生活が苦しくなった御家人を救済するために鎌倉幕府が出した法令 75 鎌倉幕府を倒した天皇

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現代文 高校生

なぜ写真の答えになるのかがわかりません。

5 10 第三語 社会 六山崎 正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の こ州。 急速な暖味化は、ム皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは一 そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわば 1三層構造を持った知的社会であった。 Mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく であり、それとともに 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その なかで活躍した仮体制説な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な『自悔の感情 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 の真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 、もる S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文一 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある(フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 ら流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎8 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 識人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 そして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

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