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世界史 高校生

このプリントの1~8の問題の答えを教えていただけると嬉しいですm(*_ _)m

高2社会:世界史B-FR 《2章,大規模な分業体制の成立》 No.65 3ルネサンス 教科書p156~158 小テスト イタリア·フィレンツェを中心に発生した,ルネサンスを支えた豪商の一族は何家か。 問2 恋人ベアトリーチェを求めて地獄~天国を旅する主人公を『神曲』で描いた詩人は誰か。 『愚神礼讃』を著して、教会や王侯貴族といった聖俗の権威を批判した人物は誰か。 問1 問3 問4 金属活字を利用した活版印刷術 を発明した人物は誰か。 問5 Aの絵画を描いた人物は誰か。 問6 Bの絵画を描いた人物は誰か。 Cの絵画を描いた人物は誰か。 問8 Dの彫刻を制作した人物は誰か。 A 問7 B D 問9.10 次の文のうち,間違っているものをふたつ選び記号で答えよ。 ア キリスト教にとらわれず,人間らしさを自由に表現する姿勢のことを人文主義(ヒューマニズム)という。 イ ルネサンスはキリスト教が広まる以前の古代ギリシア·ローマの時代の文化を再生しようという運動 である。 ウ 中国伝来の火薬を使用した「火砲」が発明されたことで戦術が大きく変化し、騎士階級は没落した。 エ ルネサンスの科学者たちによって唱えられた天動説は,それまで教会が教えてきた地動説をくつがえ す考え方であった。 オ 羅針盤はルネサンスの科学者たちによって発明され,のちに日本·中国などアジアへ伝わっていった。 2 3 4 5 7 8 9 1 0 組 番 名前 点

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世界史 高校生

問3と問5の問題が分かりません。 お分かりになる方回答お願いします!m(*_ _)m

高2社会:世界史B-FR 《2章,大規模な分業体 《T) ⑤スペインの盛衰 教科書p161~162 小テスト 問1 ハプスブルク家の出身で,広大な領土を手に入れたスペイン王は誰か。 問2 問1の人物は神聖ローマ皇帝に選出されて何と名乗ったか。 問3 問1がイタリア戦争で, イタリア領と皇帝位をめぐって争ったフランソワ1世が治めた相手国とはど こか。 問4 イタリア戦争の結果, スペイン領をふくむ大半の領土が譲られた問1の子は誰か。 問5 問4の人物がオスマン帝国を打ち破りカトリックの盟主となった戦いを何というか。 問6 メキシコと結ぶルートとして, スペインが植民地とした東南アジアの国はどこか。 問7 ネーデルランドがスペインからの独立をめざして起こした戦いを何というか。 問8 1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスのエリザベス1世に敗れた戦いを何というか。 問9.10 次の文のうち, 間違っているものを二つ選び記号で答えよ。 ア 西回りの海外進出をとったスペインの領土の中には, インドや東南アジアが含まれていた。 イ 神聖ローマ皇帝位とオーストリア領がスペインから分かれて,ハプスブルク家は分離した。 ウ この頃より, 西ヨーロッパ諸国は自国のまとまりを重視する主権国家に移行してきた。 エ 官僚制や常備軍で絶対王政をしいた主権国家は,その財源確保のために社会主義政策をとった。 オイギリスやネーデルランドはスペインの貿易船に対して, 私掌捕船で海賊行為をおこなわせた。

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世界史 高校生

世界史B【至急】 ()の中に入る語句を教えてください‼️75問もあって申し訳ないのですが、よろしくお願いします🙇‍♀️🙏

次の文章の )に適する語句を入れ、 ノ帝の死後、( 2 ) 年にローマ帝国は東西に分裂した。東ローマ帝国は、別名をビザン H国のといい、( 3 ) 年にオスマン皇帝に減ぼされるまで長く存続した。一方西ローマ帝国は 4)年、ゲルマン人傭兵隊長( 5 )によって滅ぼされた。( 6 )人の侵入により、(7 ) 、グルマン人②の一派 ( 8 ) 族が、ライン川·( 9 ) 川を越えてローマ領内に移住してきた 天機に大移動を始めた。西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパにはゲルマン人国家が成立して たが、その中でも強勢を誇ったのが、フランク王国である。フランク王国では、481年、( 10 ) がメロヴィング朝を創始し、( 11 ) 派に改宗したことで、 発展の基礎礎を固めた。 メロヴィング朝では次第に家政の長官である宮宰が力を持ち、 特に( 12 )は732年、( 13 ) の戦いでイスラム勢力③を破り、 実権を握った。その子、( 14 ) は教皇の支持を得て、メロヴィン グ朝を廃し、( 15 ) 朝を創始した。教皇は、ビザンツ皇帝( 16 9と、やむをえない事情④からそれに対抗せざるを得なかったが、西ローマ帝国滅亡以来、政治的保 護者を失っていたため、フランク王国との結びつきを求め、(15) 朝を承認した。 その見返りに教皇は (14)から( )が726年に( 17 ) を出 18 )地方を寄進され、これ以来教皇領という経済的基盤を得た。 さらに教皇( 19 ) は、(14)の子カール大帝⑤を ( 20 ) 年に戴冠した。このできごとは、政治的には西ヨーロッパ世 界の再統合、宗教的には東西教会の分離、文化的にはローマ·キリスト教·ゲルマンの文化を融合さ せたという意義がある。 カール大帝の死後、843年に( 21 ) 条約、870年に( 22 ) 条約が結ばれ、フランク王国 は分裂した。西フランク王国は後のフランスとなり、東フランク王国は後のドイツのもととなり、中 部フランク王国は後のイタリアのもととなった。各国で (15) 家が断絶すると、イタリア地方では都 市·諸侯の勢力が分立する状態となり⑥、同じく西フランク王国では ( 23 ) 伯ユーグ=カペーが カペー朝を創始したが、諸侯との力の差はなく、王権は弱体であった。 この頃のヨーロッパは、ノルマン人⑦やアジア人·スラブ人®、イスラム勢力などの外敵の侵入を 受けるようになった。中世ヨーロッパではローマの ( 24 ) 制とゲルマンの( 25 ) 制を基礎と して成立した封建制が成立し、 そのもとで主従関係を結ぶ国王や諸侯などは荘園③領主でもあった。 このような社会を封建社会といい、その性格は時代とともに変化していった。 一方東フランクでは、919年から( 26 ) 朝が始まり、第2代の王( 27 )は955年( 28 ) の戦いで( 29 ) 人を倒すなどした功績が認められ、( 30 )年に戴冠された。これにより ( 31 ) 帝国が成立した。皇帝は、聖職叙任権を握って教会組織を統治に利用する帝国教会政策を行い、 また その強化のために ( 32 ) 政策と呼ばれる遠征を行った。皇帝が (32) 政策に没頭することは、帝国 内における諸侯の台頭を招き、 帝国の分裂、 衰退へとつながった。 一方9世紀から10世紀にかけて、カトリック教会@では、( 33 ) や妻帯に象徴されるような腐 敗、世俗化が進んでいた。 この状況を刷新すべく、フランス中部で開墾運動を行った 道会や托鉢修道会などが活動する中、 改革の中心となったのが、 ( 35 道院出身の(36 ) は、聖職叙任権を教会に譲るよう、皇帝( 37 ).に求めたが、 応じなかった。 そのため、( 38 ) 年教皇は、皇帝を破門して屈服させた。このできごとを ( 39 ) という。 聖職 叙任権闘争は1 122年 ( 40 ) により終結した。 このような教皇権の拡大は、 耕地を三分して春耕地· 秋耕地·休耕地とする ( 41 ) や重量有輪率 などの普及によって、 ヨーロッパの農業生産力が向上したことなどに伴い、 「キリスト教世界の拡大」 という動きへとつながっていく。 例えば ンキス②タがあるが、中でも1096年教皇 ( 43 ) が ( 44 ) 公会議で提唱したことにはじま る十字軍はその象徴といえる。第1回十字軍では聖地をイスラム教徒から奪還し、( 45 ) 王国が建 国された。しかし、( 46 ) 朝のサラディンによって、反撃を受けたため、 第2回· 第3回の十字軍 が編成された。 特に第3回十字軍では、イギリス王( 47 )、フランス王( 48 )、皇帝 ( 4 )が軍を率い、十字軍の最高潮期と言える。一方第4回十字軍は、 ( 50 ) 商人の策謀により、 商敵である ( 51 ) を占領し、( 52 ) 帝国を建設しており、 宗教的性格は弱まった。 第5回 十字軍は皇帝 ( 34 )派修 )修道院であった。(35) 修 42 )川以東への東方植民①、教会の開墾運動、レ=コ 9 53 )によって行われ®、 外交交渉により聖地を一時奪回した。 第6·7回十字軍 フィリップ

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