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古文 高校生

中納言参り給ひて この青線の部分の答え、わかる方どなたか教えて欲しいください!!

人申 ② 作者 中納言 ① 作者→中宮定子 です すべてが素晴らしい 結び(強意) ません ます。ま 家に気に入られた 作者の口にしたことが れを、 木つり 中 Islas 人そん 中納言参り給ひて かじわらのたかいえ 2 中納言藤原隆家〔九七九―一〇四四)。 道隆の子で、定子(三五ページ注2) の弟。長徳元年〔九九五〕、中納言。 ちょうとく 中納言参りして、御扇奉らせ給ふに、「隆家こそいみじき骨は得て侍れ。 それを張らせて参らせむとするに、おぽろけの紙はえ張るまじければ、 めるなり。と申し給ふ。 「いかやうにかある。と問ひ聞こえさせ給へば、「 べていみじう侍り 『さらにまだ見ぬ骨のさまなり」となむ人々申す。 とにかばかりのは見えざりつ」と言高くのたまへば、 さては、扇の はあ 2骨 ここでは扇の骨のこと。 まこ ◆「言高くのたまへば」には、誰の、ど のような気持ちが表れているか。 ななり と聞こゆれば、これは隆家が言にしてむ。 とて、 はつ 笑ひ給ふ。 3ななり「なるなり」の撥音便「なん 「なり」の「ん」が表記されない形。 かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一 おぼろけなり かたはらいたし 【第九十八段】 いかがはせむ つな落としそ。と言へば、いかがはせむ。 学習の 「さては、扇のにはあらで、くらげのななり。〔三四・5〕 とは、どのようなことをいっているのか、説明しよう。 最後の一文には、作者のどのような気持ちが込められているか。 手引き 語句と の敬語の種類は何か。また、誰の誰に対する敬意か。 表現 り給ひて [三四・1〕 ②張らせて参らせむ(三四・2〕 雪のいと高う降りたるを 雪のいと高う降りたるを、例 こと かうし ③中宮が 30-0 中納言に 聞いた てい けるそ 34 随筆 1 ③ 問ひ聞こえさせ給へば〔三四・3) ④聞こゆれば〔三四・6〕 1炭櫃 ≫三一ページ注3 2少納言よ。

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古文 高校生

徒然草の問題です。 問4の答えは「東国でしら梵字の師が殺されたこと。」だと思ったのですが、解説に「いろをしの立場からまとめる。」と書いてあって、答えは「東国でしら梵字の師を殺したこと。」となるようです。どうしていろをしの立場からまとめると分かるのか教えてください…! (下線... 続きを読む

26 0 つれづれぐさ 『徒然草』〈第百十五段〉 文法詳解図 内容を確認しよう! はぼろぼろ」に対する肯定的評価 は否定的評価 太字は終助詞・間投助詞 名 八四体名 格助 名 (筆者→仏) 四 宿河原といふ所にて、 名 格助サ四・用過去・体接助 名格助力変・完了・体 ぼろぼろ多く集まりて、 宿河原という所で、 九品の念仏を申しけるに、 九品の念仏を 外より入り来たる ぼろぼろが 大勢集まって、 唱え申し上げていたところ、外から 入って来た 副詞の呼応〈疑問〉 格助 名名格助 謙(しら梵字 →いろをし 四体 名 「係り結び(疑問) 春(しら梵字 名 ぼろぼろの、 いろをし サ四体 格助ナ下二・用過去・已接助 この御中に、 いろをし房と申す ぼろや ぼろぼろが、 おはします。 」と尋ねければ、そ ここにいる方々の中に、 いろをし房と 申し上げるぼろは 「もしや、 いをしが いらっしゃいますか。」と尋ねたので、 尊(いろをし 格助 名 格助 丁(いろをし 名 格助八四終 →しら梵字) 文末用法(強調) →「ぞ」の清音化 →しら梵字) ハ四体 係助 名 ※聞き手敬意の謙譲語 謙(しら梵字 いろをし 四体 格助 八下二・已接助 80 の中より、 「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ。」と答ふれば、「しら梵字と申す の中から、(一人のぼろが)「いろをしは、 おります。このようにおっしゃるのは、どなたですか。」と答えると、 (私は) しら梵字と申す 謙(しら梵字 謙(しら梵字 ↓2から 名 格 名 謙(しら梵字 名断定終 名 →なにがし) 格助サ四・過去・体名 →いろをし →人) 名 格助 名 四体名 格助サ四・未受身・用過去・終格助ラ四川 者なり。己が師、なにがしと申しい人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承り 者です。 私の師匠で、 何某と 申し上げた方が、 東国で、 いろをしと 申し上げるぼろに殺されたと うかがっ 謙 (しら梵字 謙 (しら梵字 謙(しら梵字 →いろし) 名格助 名格助ハ四・用補ラ四・用接助 →いろをし →いろをし しら梵字は ナ下二・用補サ四・体定・終 格助ハ四終 過去 マ上二用補サ四・未経助格助ハ四・用接助 しかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり。」と言ふ。 いろをし、 たので、 その人に お会い申し上げて、 恨みを晴らし申し上げたいと思って、 尋ね申し上げたのです。」と (その者は言う。いろをしは、 尊(いろをし 丁(いろをし 謙(いろをし 梵字) しら梵字) 丁(いろをし 名 格助サ四用補ラ変・体推量・終 →しら梵字) 係助 ナ下二用補サ変・用完了終 →しら梵字) ラ変・過去・終 シク用 変体名 名 格助 サ変・袖ラ四・未接助 「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事 侍りき。ここにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。 「殊勝にも よく尋ねていらっしゃいました。そのようなことがございました。ここで お手合わせ申し上げれば、道場を 汚すことになるでしょう。 尊(いろし →わささしたち) 名 格係 ガ四用 補八四終格助 (尾) 聞き手敬意 謙(いろをし の謙譲語しら梵字) 名 格助名 格助ラ四・用八四・未意志・終 幹 前の河原へ参りあはん。 いづ方をもみつぎ 給ふ な。 あまたの あなかしこ、わきさしたち、 傍らに付き添う者たちよ、 参ってお手合わせしましょう。 決して、 どちらをも 加勢なさってはいけない。 大勢の 前の河原へ 丁(いろをし きさ ち) 四終 名 格助 名 格下二・用ハ四・用接助 マ下二・用接助 名 名 格助 名 断定用補ラ変体推量・終 格助ラ四・未接助 わづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし。」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行く 二人は、 出て 河原へ 立ち合って、 思う存分 話をつけて、 迷惑に なっては、 修行の 妨げでございましょう。」と →(あらむ) 1から 名 四体名 ク・体名 名係助用 過去・体断定・用係助 剛助 変・用完了・用過去・終 八四用 格助 接助 ばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。 ぼろぼろといふもの、 昔はなかりけるにや。近き世 ぼろぼろという者は、 近世に、 昔はいなかったのであろうか。 二人とも死んでしまった。 刺し違えて、 (省略) 名名定・用過去・体格助係助間助 名 格助夕下二・用完了・体格助力上一・川助 剛助 ハ四用過去・体名 格助 ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、 その始めなりけるとかや。 世を捨てたるに似て ぼろんじ・ 世俗を捨てたようでいて 梵字・ 漢字などと いった者が、 その起源であったとかいうことだ。 随筆 名 名 名 ここに 名 名 格助四体格助十上一・用接助 5 80 (Br =) < (5 名 そ 3 (省略) 格助 名 名 名 格助サ変・終 名格名 断定・巳接 名格助ク・サ愛用後助 我執深く、仏道を願に似 闘を事とす 放逸無意の有様なれども、死を軽くして、少しも 闘争を 仕事としている。 勝手で恥知らずの有様であるけれども、死を軽くみて、 執着心が強く、 仏道を 願うようでいて 少しも 副詞の呼応〈打消〉 四・未打消・体名 格助 丁(筆者→読み手) 格助 カ下二相変体新定・ ク用 ヤ下二 名格助四・過去・体 なづまざるかたのいさぎよくおぼえて、人の語りしままに書き付けるなり。 生に執着しないところが 痛快に 思われて、 人が話したとおりに 書き付けたのでございます。 2

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国語 中学生

毎年私立の問題にジャンルと成立時代を答える問題があってこの古文もあるのですがどうやったら鎌倉時代の説話とわかりますか?!! 解説ないのでお願いします!!

次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 ※つくし ぶぜんのかみ かげゅしゅうこうありくにきゃう 勘解由 相 公有国 卿、若かりけるころ、父、豊前守に具して、筑紫に 父である豊前守に同行して、 たいさんぶくん ありける時、父、にはかに病を受けて死にければ、有国、泰山府君の祭を たてまつ 法のごとく、心をいたしてし奉りけるに、三時ばかりありて、生き返り 行い申し上げたところ、 きゃう えんま ていはく、「われ、閻魔庁に召されたりつるに、美麗なる饗 をそな ※みゃうくわん ※すけみち へたるによて、 返しつかはすべき由、定めあるに、冥官一人、輔道 決まりがあるので、 をば返しつかはさるるといへども、 有国をば召さるべし。 そのゆゑは、 というけれども、 その道のものにあらずして、その祭をつとむ。そのとが、なかるべきにあ なしとするわけにはい らずと申すに、また座に着きたる人、『有国、とがあらず。その道のもの けない かうやう さた なき遠国の境にて、孝養心にたへず、この祭をつとめたらむ。沙汰に及ぶ 有罪にする必要 我慢できず、 べからず」と申すに、着座の人々、みな「これに同じ」と申すによて、 はない 今返されたるなり」】といひけり。 ※しゅいんかんくわ せいじ かの修因感果の、かぎりなき政事の中にも、かやうのことにつきて、な 無数のお裁きにおいてさえ、 みゅうりょおのおの ほ冥慮 各別なり。いはむや人間をや。しかれば、賞をばすすめ、刑を そうであればこそ、 ばなだめて、慈悲をさきとせむこと、さだめて、上は天意に達し、下は 人望にかなはむものをや。 (新編日本古典文学全集 「十訓抄」より) 勘解由相公・ ・官職。そ さい

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古文 高校生

(1)①と(2)3を教えてください

P 17 古典 戦記物語・戦記随筆を読む 平家物語・常山紀談 ●ガイド 人物描写が主 流になるので、主人公の 動作や心情の表れに十分 注意をはらおう。 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 (鬼界が島に流されていた三人のうち、俊寛僧都を除き、 他の二人が許さ れて都に帰ることになった。その船出のときのことである。) ともづな解いて押しいだせば、僧都綱にとりつき、腰になり、脇になり、 たけの立つまでは引かれていで、たけも及ばずなりければ、船にとりつき、「さ て、いかにをのをの、俊寛をばつゐに捨ててたまふか。これほどのとこそ 思はざりつれ。日ごろの情けも今は何ならず。ただ理をまげて乗せたまへ。 せめては、九国の地まで。」とくどかれけれども、都のお使ひ、「いかにもか なひ候ふまじ。」とて、とりつきたまへる手を引きのけて、船をばつゐにこ ぎいだす。僧都せん方なさに、なぎさに上がり、倒れ伏し、幼き者の乳母や 母などを慕ふやうに、足ずりをして、「これ乗せてゆけ。具してゆけ」とを めき叫べども、こぎゆく船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。(平家物語) 1 【心情吟味】 一線①という動作に、僧都のどんな気持ちが表れていま すか。 二十五字以内で書き、 線②の僧都の気持ちとして適当なもの を、あとのア~エから選んで記号で書きなさい。 ア助けてくれと訴えている自分をみじめだと思う気持ち せめて情けにすがって助かりたいという気持ち ウ 今になって自分のおかした罪を後悔する気持ち どうせ助けてもらえないというあきらめきった気持ち 【口語訳】 1、2、3にあてはまる語を、情または理を含む二字からな る漢語で書きなさい。 薄情 情愛 道理 2 H ②

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古文 高校生

(2)を教えてください

17 典 ☺ ( 戦記物語戦記随筆を読む 平家物語・常山紀談 ◎ガイド 人物描写が主 流になるので、主人公の 動作や心情の表れに十分 注意をはらおう。 古 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 (鬼界が島に流されていた三人のうち、俊寛僧都を除き、他の二人が許さ れて都に帰ることになった。その船出のときのことである。) ともづな解いて押しいだせば、僧都綱にとりつき、腰になり、脇になり、 たけの立つまでは引かれていで、たけも及ばずなりければ、船にとりつき、「さ て、いかにをのをの、俊寛をばつゐに捨てはてたまふか。これほど囚とこそ 思はざりつれ。日ごろの情けも今は何ならず。ただ理をまげて乗せたまへ。 せめては、九国の地まで。」とくどかれけれども、都のお使ひ、「いかにもか なひ候ふまじ。」とて、とりつきたまへる手を引きのけて、船をばつゐにこ ぎいだす。僧都せん方なさに、なぎさに上がり、倒れ伏し、幼き者の乳母や 母などを慕ふやうに、足ずりをして、「これ乗せてゆけ。具してゆけ」とを めき叫べども、こぎゆく船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。(平家物語) 1 【心情吟味】線 ① という動作に、僧都のどんな気持ちが表れていま すか。 二十五字以内で書き、 線②の僧都の気持ちとして適当なもの を、あとのア~エから選んで記号で書きなさい。 ア助けてくれと訴えている自分をみじめだと思う気持ち せめて情けにすがって助かりたいという気持ち 今になって自分のおかした罪を後悔する気持ち どうせ助けてもらえないというあきらめきった気持ち ⑦ 【口語訳】 □1、2、3にあてはまる語を、情または理を含む二字からな る漢語で書きなさい。 是程 情愛 の道理 線の部分をわかりやすく現代語になおして、十字以内で 地団駄を踏むこと 書きなさい。 4 【内容吟味】足ずりをしてわめき叫んでも、なんの効果もなかった。その むなしさを端的に表していることばを、 右の文章中から十字以内でぬき出 して書きなさい。 跡は白波ばかりな 【口語訳】 )

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古文 高校生

(2)を教えてください

34 17 戦記物語・戦記随筆を読む 平家物語・常山紀談 ●ガイド 人物描写が主 流になるので、主人公の 動作や心情の表れに十分 注意をはらおう。 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 (鬼界が島に流されていた三人のうち、俊寛僧都を除き、 他の二人が許さ れて都に帰ることになった。その船出のときのことである。) ともづな解いて押しいだせば、僧都綱にとりつき、腰になり、脇になり、 たけの立つまでは引かれていて、たけも及ばずなりければ、船にとりつき、「さ て、いかにをのをの、俊寛をばつゐに捨てはてたまふか。これほどのとこそ 思はざりつれ。日ごろの情けも今は何ならず。ただ理をまげて乗せたまへ。 せめては、九国の地まで。」とくどかれけれども、都のお使ひ、「いかにもか なひ候ふまじ。」とて、とりつきたまへる手を引きのけて、船をばつゐにこ ぎいだす。僧都せん方なさに、なぎさに上がり、倒れ伏し、幼き者の乳母や 母などを慕ふやうに、足ずりをして、「これ乗せてゆけ。 具してゆけ」とを めき叫べども、こぎゆく船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。 (平家物語) 1 【心情吟味】 一線①という動作に、僧都のどんな気持ちが表れていま すか。 二十五字以内で書き、 線②の僧都の気持ちとして適当なもの を、あとのア~エから選んで記号で書きなさい。 ア助けてくれと訴えている自分をみじめだと思う気持ち せめて情けにすがって助かりたいという気持ち ウ 今になって自分のおかした罪を後悔する気持ち どうせ助けてもらえないというあきらめきった気持ち 【口語訳】 1、2、3にあてはまる語を、情または理を含む二字からな る漢語で書きなさい。 1 古典 PR e ( )

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日本史 高校生

教えてください🙏

の法の醍皇 三皇 2- 官 要 白 t 本 滋 床 L. た ●国風文化 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 遣唐使の廃止後,これまでの大陸文化と貴族文化が融合して, 日本の風土に合った国風文化 が誕生した。 国風文化の象徴であるかな文字は、 万葉がなの草書体を簡略化した ( 11 )ゃ, 20 きんちょう 漢字の一部分である ( 12 ) が日常生活で使用されて, 多くの文学作品が生まれた。 和歌は, 最初の勅撰和歌集である 「古今和歌集」 が編纂され, 古今調の歌風は後世の和歌の模範となった。 この歌集の歌人である紀貫之は,最初のかな日記である ( 13 ) を記し, また藤原道綱の きのつらゆき みちつな たかすえむすめ じんてきかいそうろく しょう し 母が自らの家庭生活を記した( 14 ) や,菅原孝標の女が自伝的回想録を記した( 15 ) のように、女性によるかな日記も誕生した。 かな物語では、最古の物語文学である(16)や、 短編の歌物語集である「伊勢物語」があった。また、中宮彰子に仕えた紫式部の(17) ( 18 ) が皇后定子に仕えた宮廷生活での体験を随筆風に描いた『枕草子」は,国文 学の最高傑作とされている。 藤原道長の栄華を描いた「栄華物語」の歴史物語もあった。この ように、かな文学は教養豊かな女官(女房)によって隆盛した一方で,貴族は公の場では漢字 を使用したが、藤原道長の日記 ( 19 ) のように,その文章は和風的な漢文であった。 かじきとう げんぜりゃ この時期の仏教は,加持祈疇により現世利益を追求する貴族と天台・真言宗が強く結びつい ほん じ すいじゃくせつ ごりょうえ 61% ていた一方、神仏習合の考えである本地垂迹説の思想も盛んとなり、御霊会も盛んに催さ くうや れた。これと同様に浄土教も流行し、10世紀半ばに空也が京の市で説いたのちに(20) おうじょうようしゅう ねんぶつ が 「往生要集」で念仏往生を説くことで貴族・民衆の間に流行した。さらに、末法思想によっ まっぽう しそう て浄土信仰はいっそう広まり、来世で救われたいと考える人々が増加した。ほかにも、経典 きょうづつ きょうづか を写経して経筒に入れて地中に埋める経塚も営まれた。 また, B しんでんづくり 美術工芸の作品も国風化の影響を受けており,寝殿造とい すまびょう う日本風の建築様式が使用された貴族の住宅内部は、襖や屏 まきえ らでん 風に d 大和絵が描かれた。 また, 蒔絵や螺鈿の手法を使用し さんせぎ た調度品も屋内に飾られ, 書道では三蹟と呼ばれる和様の名手の作品も重宝した。 藤原道長の ゅんじゅう らいこう ず が臨終の人を極楽浄土へ迎えに来る場面を描いた。 来迎図も多く描かれた。 ほうじょうじ びょうどういんほうおうどう どう 法成寺や図 B の平等院鳳凰堂は,浄土教が影響した阿弥陀堂の遺構である。 また、阿弥陀仏 げんぶく 貴族は10~15歳で男性は元服し、女性は裳着の式をあ しゅっし そくたい 上げて成人し、男性は官職を得て朝廷に出仕して、年中行事 などに奉仕した。 その際, 貴族男性は図Cの束帯や簡素化 した 女性は図Dの安房装業(十二単を正装とした。 一 小 一人 ・唐衣 19 一表者 藤原冬嗣を筆頭に北家が勢力をのばし、(1) 基経は,他氏排斥により摂政・関白の 地位を高めた。その後醍醐・村上天皇による親政が行われたが, 安和の変後に藤原忠平 が摂関政治を行い、藤原道長 頼通父子の時に最盛期を迎えた。外交では,唐滅亡後に建 国した宋や、中国東北部の ( 9 ) 朝鮮半島の (10)と国交を結ぶことはなかった。 Check Point - → がくるという説。 彼らの多くは左京に住んで常に在京し、食事は1日に2回 を限度として, その日の行動を吉凶によって決定するといった日常生活をおくったのである。 本地垂迹説 仏 (=本地)が人々を救 済するため, 神という仮 の姿となってこの世に現 れたとする思想。 御霊会 なぐさ 政治的に非業の死を遂げ た人の霊を慰める行事が. のちに疫病の流行を防ぐ 目的に変化した祭礼。 浄土教 阿弥陀仏を信仰し、来世 において極楽浄土に往生 し、そこで悟りを得て苦 をなくす教え。 末法思想 しゃか 釈迦の死後に、正法・像 法の時代を経て末法の世 ぽっぽう 貴族の住宅用建築様式で、 寝殿を中心に東対・北対・ 東北対が透渡殿・渡殿で 接続された。 わたどの 蒔絵 漆で描いた模様に、 金粉・ 銀粉を蒔きつける技法。 しんじゅこう 貝殻の真珠光を加工して 漆器に埋め込む技法。 おののみちかぜ THRE 小野道風・藤原佐理・藤 原行成の3人の名手。 なり 「藤原頼通が木造 宇治に建 立内部に じょうちょう。 仏師定朝 せり みだにょらいそう が寄木造で つくった阿弥陀如来像が 安置された。 宮中で毎年特定の時期に 行う神事・仏事 政務の 行事のこと。 問1 奈良・平安 問2 問3 問1 下線部aについて, この出来事を何というか。 問4 よししげのやすた 問2 下線部について、この両天皇の親政はのちに何と呼ばれてたたえられたか。 問3 下線部の人々のうち、往生をとげた人物の伝記を集めた, 慶滋保胤の著書は何か。問5 問4 下線部dについて、大和絵の名手であった平安時代前期の宮廷画家は誰か。 問6 問5 下線部eについて。 高野山が所蔵する阿弥陀如来と諸尊32体の来迎図を何というか。 問6 下線部fのうち吉凶により引きこもったり、凶の方角を避ける行為はそれぞれ何か。 ポテンシャル日本史 23

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国語 中学生

答えと解説お願いします!

月 〈随筆〉 (1.5.10… は行番号です。) 中学一年生の夏休み、生れて初めて高山を間近に眺めた。 父親の仕事 の手伝いで上高地に行ったのである。 車酔いでふらふらになった私の頭 上へ、穂高連峰がいきなりおおいかぶさってきた。 私は突然自分が蟻み たいに小さくなるのを感じた。 そして山は美しさと荘厳さにおいて、ま さに神に近かった。 山に人が太刀打ちできるとは、とうてい思えなかっ た。その印象はいまだに体に彫りこまれていて、消すことはできない。 北の山を中心にあちこちの峰をめぐり歩いていたときも、私は偉大なる 山に遊んでもらっていたにすぎない。 父は双翅目が専門の昆虫学者であった。上高地には妖精のような高山 もふわふわ舞っていたのだが、私が捕るように命じられたのはハエと アブだけだった。たぶん父は研究対象の双翅目の許可だけをもらってい たのであろう。私は笹やぶを補虫紙で引っかき回すのに退屈して、手伝 いを放棄すると、魂のけし飛ぶ思いでいつまでも山々を眺めつづけた。 そうかいかん 翌年、焼岳と西穂に登った。頂上に立って四方を見わたす爽快感を知っ 156た。その次の年は館が岳。下山後、雲海の夢につきまとわれた。〈中略〉 五歳まで札幌で暮らしていた私は、ふるさとの山や雪に特別の思い入 れを持っていた。北大に進学したのも、北の自然が私を呼んだのである。 〈中略〉 しょかん ていね あしべつ そらぬま 四年間に登った山々は、 空沼・朝里・十勝・大雪・手稲・芦別・暑寒 えにわ らうす ゆうばり たてやま 20別・ニペソツ・石狩・余市・羊蹄・恵庭・羅臼・ニセコ・夕張・立山・ 穂高・白馬など。 夏も冬も道内も道外もひたすら登りつづけた日々であった。 それぞれ の山には、それぞれの思い出が焼きついていて、今となってはどれかを 選びだすことは不可能に近い。 25 ガラスの粉のようにきらめくザラメ雪、羽毛のように軽やかに舞いあ れっぷう ほお がる新雪 烈風を頬にたたきつけて凍傷を残して去った猛吹雪、ヒグマ 2を気にしながらやぶこぎしたハイマツ帯、色とりどりの敷物のように展 基本の確認 問 3行めの足を洗って に関連して、「足を洗う」の意味を辞書など を使って調べてみましょう。 アドバイス 慣用表現には体の一部を使ったものがたくさんあります。 「足を洗 う」と同じように「足」を使ったものには「足が重い」 「足が地に つかない」 「足をのばす」などもあります。 これらの意味だけでなく、 ほかにどのような表現があるかも辞書などで調べてみましょう。 問一 筆者の山に対する印象〉7~8行めの私は偉大なる山に遊ん でもらっていたにすぎない について、筆者が山を偉大だと感じてい る理由を次のように書きました。 後の1~③に答えなさい。 筆者が生まれて初めて見た高山は、筆者に「A(六字)」るほど大 きく、あまりにも美しく荘厳だったので、 人間などとてもかなわない 神様のように感じられたから。 ①Aに入る最も適当な言葉を、 六字で本文中からそのまま抜き出 しなさい。 ② とてもかなわない について、本文中で筆者が山に「とてもかなわ ない」と述べている部分(同じ意味の部分)を二か所探し、それぞれ 一文でそのまま抜き出しなさい。 (注)そうしく ほかほぼ & けだけにしほ ここんちゅう ♦ ようてい ♦ ♦ ♦ ・ ・ ・ • ぞうしょく 2開するお花畑。映像は消えることなく重なりあい、増殖してふたたび山 への慕情をかきたてていった。 30 卒業後も、仕事の間をぬってせっせと山へ行った。五月の尾瀬では丸 し ぶっさん 三日間一人歩きして、出会ったのは至仏山のふもとで春スキーをしてい た数人のスキーヤーのみである。七、八年後には交通整理をするほど有 名になる場所とも知らず、思えばぜいたくな山旅であった。 頂上が目的の登山から足を洗って、十年以上にもなる。 幼い娘たちの 956 体力に合わせて、ゆっくりした山歩きを選んでいるうちに、いつかその ほうが自分の性にも合っていることを発見したのである。 のんびり野山 を歩いていると、それまでは気にとめなかった様々の生命のしるしが現 われてきた。野鳥の鳴き声、茂みを走っていく小動物の足音、ひっそり と咲く野花の群れ、樹木のささやき、昆虫たちのふしぎな生活。自然の 中にはこれら生き物の気配が満ち満ちていた。 そうがんきょう いつのまにか私は双眼鏡を首からさげ、リュックに数種類の図鑑を入 れ、片手にノートを持った自然観察者の姿になっていた。人生の幾つ目 の角を曲がって、山がたて方向にのみではなく、水平の方向にも深い 広がりを持つことを見いだした私は、いわば最初に山を見た中学生の地 145点に戻ったのかもしれない。 彼女が穂高の に人智を超えたものを見たように、私も今、自然を形 づくる生命たちの精巧さに限りなく引かれているからだ。 せいこう (注) 双眼….二枚の翅を持つ昆虫の仲間。 北大・・・北海道大学。 やぶこぎ… 低木の密生する藪を地面に足がつかない状態でかき分けて進む こと。 ハイマツ帯… マツ(ハイマツ)が広がる地帯。 尾瀬・・・福島県・新潟県・群馬県に広がる盆地状の高原。 (③) 筆者が、いろいろな山に登れるようになった後も、「偉大なる山に んでもらっていた」と述べていることを次のように書きました。 に入る言葉を本文中から探して書きなさい。 筆者は を知った後でも、初めて高山を見たときに抱いた、山に対する尊敬の 気持ちは変わらなかった。 問二山歩きを楽しむ筆者〉 4行めの自然観察者の姿について、 山歩きを楽しむ筆者の姿を想像しましょう。 このときの持ち物を、筆 者がどのように使うか、 本文を参考にして考えてみましょう。 そうがんきょう 双眼鏡 問三昔のことを振り返る 〉 4行めの彼女は誰のことをさしますか。 次の1~4から一つ選び、その番号を書きなさい。 筆者の父 2 上高地で見た山 3 筆者の娘 4 中学生の頃の筆者 T ・・・ 長野県にあるんかくけいお こんちゅう (とうゆきこ 山と私」による。

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現代文 高校生

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Since 1994 N TURITORY 【二】 次の文章は、小池昌代の随筆「道について」の一部である。後の問いに答えよ。 (30点) 知っている道に出たときの、あの不思議にほっとする、あたたかい感じ。わたしたちはどんなに大人になっても、身体の奥に、迷子に なることの恐怖をかかえて生きているのではないだろうか。 しかしどんな道も、いかなる町も、生きているひとと知り合うのに似て、少しずつ、だんだんと、なじんでくるものだ。 町の構造がようやく身体に入ってきたころ、「近道」とか「遠回り」というガイネンも入ってきた。 目印だけを頼りに通っていた道が、 案外回りであることがわかったり、思い切って足を踏み入れてみた小路が、思いがけぬところへ抜けていたり。 道を歩くことは、こ うして全身をかけて土地を切り開き、土地にもぐりこみ、土地になじんでいく行為にほかならなかった。 知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知っている道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知る 道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある。 1 道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わってもいるようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところ へ出る。 知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る。 外国に旅に出ると、特に一人旅では、こういうことは明瞭に起こる。 言葉の不自由さに加えて、土地そのものからはじかれている感じ は、ひとを二重に異邦人にするが、それでもひとつの道が次第に親しい道になっていき、日々、見知らぬ場所へとひとを運び、再び宿へ とひとを戻すとき、その道はひとにとって、水や塩に等しい、命をつなぐ脈ともなる。 そうした道に付けられてある通りの名前を知った りすると、道は、いつでも記憶のなかに呼び出せる、親しい友のような表情さえ表す。 初めての道に足を踏み入れるときは、いつも身体に緊張が走るが、すべての道は、二度目に通るときから、「知っている道」になるこ とも面白い。当たり前のことだが、そのことはうれしい。 二度目に通るとき、ひとは、今の道と記憶のなかの道の、二つの道を同時に歩 くのだ。 以前、わたしの友人に、新しい記憶ほど剥がれ落ちてしまうという記憶障害を持っているひとがいた。そのせいなのだろうか、彼は何 度来ても、わたしの家へたどりつけない。 わからなくなったと、途中で電話が入る。 障害のことをそのとき知らなかった。そのたびに駅 まで迎えに行って、目印になるものを教えながら歩いたが、ついに、ひとりではやってくることができなかった。 わたしの祖母の呆けも、自分の家に帰れなくなったところから始まっている。 祖母も友人も、どれほどに自分がもどかしく、ふがいなく、心もとなく、不安だったことだろう。あのときは、ただ困った状況として とらえるだけで、彼らの不安そのものには目が向かなかった。 行きたい場所へ、行き着けないいま思うと、彼らの不安は、わたしの不安そのものに思える。 不安はすべて、未来を先取りした途 上に生まれ、その意味で、生きることはそのまま丸ごと、「不安」そのものだ、とわたしは思う。 子供のころ、迷子になったことがある。 夏の朝、家の前の道を、ひとりでずんずんと進んでいった結果、とんでもないところへ出てし まったのであった。 気がついて見回した町並みは自分のまったく見知らぬ場所である。見知らぬひとが歩いている。 見知らぬ自転車がとまっている。 自分 で勝手に歩いてきただけなのに、自分の帰るべき根元のようなものが、ぷっつんと音をたてて切れてしまったようだった。 遠心力のよう な透明な力によって、リフジンに道端に捨てられたような気がした。 わたしは、ひとりだった。 あたたかい共同体からはじきだされて。 こん棒で胸をつかれたような、激しい悲しみの感情がわいた。 わたしは大声をあげて、泣いたのではなかったか。 今でも遊園地やデパートや公園などで迷子のアナウンスがなされると、その子供の不安が自分のなかで、同じくらいの大きさにふくら んでしまう。きっと誰かが迎えに来てくれるに違いないと思うが、そうしたアナウンスは、見つかりましたという結果までは流さない。 とっ さに脳裏に浮かぶのは、親から見捨てられた、永遠の迷子としての子供のイメージである。 それが自分のなかの悲しみのようなものと共 鳴する。 ここはどこ? すべての迷子は、まずその疑問に射抜かれている。いつも暮らしている場所にいるとき、わたしはそんな質問をもった ことがなかった。自分が生きている場所を見失う不安、それは自分自身を見失う不安のことなのかもしれない。 ここはどこ? というひ とつの疑問は、わたしはだれ? という次の疑問を容易に呼び出しそうな気配を持っている。 しかし、わたしは、自分が迷子になったあのときの、ひりひりとした、 異様に新鮮な不安を、大人になった今、時々、味わいたいと思 & e 1

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国語 中学生

随筆の文章なのですが誤字脱字が無いか見て頂きたいです

4.3. 2・1・0 ③内容に適した文章の種類を選んで書けているか。 要素やポイントを守っているか。 210 2.1.0 2・1・0 ④ 紙面構成 見出しに工夫はあるか。 ①分量が十分か。 ( 8割程度) ②字脱字がないか。 日本語が 正しいか。 (2か所=1点減点) 京都 62 = # 修学旅行二日目 の 私達は班行動 一番最初に清水寺へ行くことに した。 清水寺にはたくさんの修学旅 行生であふれていた。 まず、私達は胎内めぐりをした。 真 暗な中ひもをたどって歩いた。前を歩い ている人が見えないほど、真っ暗で少し怖 かた 最後には明るくな います える石があった。真っ暗な中を 越えた 先にあった石には達成感が感じられた 次に清水寺の本堂へ何かた。 本堂へ向か おみ、 おみくじの 結果は牛吉や小さで微妙だったが みんなでひいたから、楽 しかった。 トロ 本堂へ着くと、テレビや雑誌などで何度も たことのある光景が待っていた。京都 美しい光景を一望でき、京都タワーも見 の運転手さんが言うには えた。 紅葉もとても美しいそうだ。私も にまた来たいと思った。 次の場所へ向 かう途中に、本堂から他の学校の修学旅 生が「や、ほ!」と叫んでいるのが聞こえた。 それを聞いたタクシーの運転手さんが「神聖 な場所だから、大声をあげたらダメなんだよ。 J 言った私は彼の京都人 としての誇りを 強く感じた。 最後に私達は清水寺の周辺でお土 産を買った私はお土産 を買いうことが一 楽しみだった。 ハッ橋や琥珀糖などを 震えて大満足だった。 清水寺は私の絶対、また行きたいと思う 場所の一つだ。

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