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日本史 高校生

日本史のテキストの答え合わせをして頂きたいです。 答えが配られるのが遅くテスト勉強ができないので助けて頂きたいです😭 よろしくお願いします🙏🏻

第5章 52 武家社会の成長 25. 鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱 02 241 diss 13 円統送立 □4 北条高時 ..Lezbr.2. 5 05 正中の変 Pa 01 持明院統 こう 16 元弘の変 08 09 0 16 J2CG" □ 楠木正成 07 2010 足利尊氏 677721²10 新田義貞 16 u 綸旨 laplarfälschh....... □14 中先代の乱 □15 ① 持明院統 *********** ② 光厳天皇 702 □17 南北朝の EXP 基本問題 120点 = ちょうこうどうりょう 1. 後深草天皇を祖とし、長講堂領を継承した皇統(のちの北朝)は何か。 2. 亀山天皇を祖とし、八条院領を継承した皇統(のちの南朝)は何か。 3.1と2の2つの皇統が, 交代で皇位につくことを何というか。 とくそう 4. 鎌倉幕府の最後の得宗で, 1316 ~ 1326 年の間に 14代執権であっ に重視された,天皇の意思を伝える文書を何というか。 けんむ しんせい □11 記録所 11. 建武の新政で設置された, 重要政務を扱う中央機関を何というか。 □12 雑訴決断所 12. 建武の新政で設置された, 鎌倉幕府の引付の機能を受け継いだ所領 ひきつけ 2018 019 □20 観応の損乱 かんのり た人物は誰か。 ごだいご すけともとしもと 5.1324 年, 2 の皇統の後醍醐天皇が日野資朝・俊基らと討幕を計画し、 事前に発覚して失敗した事件を何というか。 たじょうがわらろくしょ 問題などを扱う裁判機関を何というか。 かもがわ □13 二条河原書 13. 京都の鴨川の河原に「此比郡ニハヤル物。・・・」 という内容で掲示され このごろみやこ 2.2.0.93.18 1 高師直 6.1331年,後醍醐天皇が再度討幕を計画したが未然に発覚して挙 おき に失敗し, 隠岐に流された事件を何というか。 もりよし けん む 7.後醍醐天皇の皇子護良親王とともに討幕のために挙兵し、建武の新 政でも活躍したが,のちに湊川の戦いで戦死した武将は誰か。 みなとがわ 8. 鎌倉幕府軍の有力御家人であったが, 1333年に幕府に反旗をひる ろくはらたんだい がえして六波羅探題を攻略した、のちの室町幕府初代将軍は誰か。 む しゃどころ とうにん 9.1333年に鎌倉を攻略して、 建武の新政でも武者所の頭人 (長官)と して活躍したが,のちに北陸で戦死した武将は誰か。 むらかみ しんせい けんむ しんせい 10.醍醐天皇 村上天皇の天皇親政を理想とした建武の新政において特 . また、建武の新政を批判した七五調の文書は何か。 ときゆき 14.1335年に北条時行が鎌倉幕府再興を図った反乱は,8の人物が京 都から関東へ出陣して鎮圧したが, 彼が鎌倉に留まり新政府へ反旗 をひるがえすきっかけとなった。この反乱を何というか。 15.8の人物が新政府に反旗をひるがえし, 京都を制圧した後に新たに ようりつ 擁立したのは, ① どの皇統の, ② 何という天皇か。 ごむらかみ ゆうそくこじつしょ しょくげんしょう 16. 南朝の後醍醐天皇 後村上天皇に仕え, 有職故実書の 『職原抄』 や、 . じんのうしょうとうき 南朝の正統性を主張した 『神皇正統記』を著した人物は誰か。 よしの 17. 吉野の南朝と京都の北朝が1336年に対立してから1392年に足利 よしみつ 義満に合一されるまでの、一連の内乱を何というか。 18. 室町幕府の創設に尽力し、 政務を分担した8の人物の弟は誰か。 しつじ 19. 将軍家の執事として幕政に参加し, 権勢をふるった人物は誰か。 2018の人物と19の人物の各勢力が対立して発生した争乱は何か。

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日本史 高校生

教えてください🙏

の法の醍皇 三皇 2- 官 要 白 t 本 滋 床 L. た ●国風文化 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 遣唐使の廃止後,これまでの大陸文化と貴族文化が融合して, 日本の風土に合った国風文化 が誕生した。 国風文化の象徴であるかな文字は、 万葉がなの草書体を簡略化した ( 11 )ゃ, 20 きんちょう 漢字の一部分である ( 12 ) が日常生活で使用されて, 多くの文学作品が生まれた。 和歌は, 最初の勅撰和歌集である 「古今和歌集」 が編纂され, 古今調の歌風は後世の和歌の模範となった。 この歌集の歌人である紀貫之は,最初のかな日記である ( 13 ) を記し, また藤原道綱の きのつらゆき みちつな たかすえむすめ じんてきかいそうろく しょう し 母が自らの家庭生活を記した( 14 ) や,菅原孝標の女が自伝的回想録を記した( 15 ) のように、女性によるかな日記も誕生した。 かな物語では、最古の物語文学である(16)や、 短編の歌物語集である「伊勢物語」があった。また、中宮彰子に仕えた紫式部の(17) ( 18 ) が皇后定子に仕えた宮廷生活での体験を随筆風に描いた『枕草子」は,国文 学の最高傑作とされている。 藤原道長の栄華を描いた「栄華物語」の歴史物語もあった。この ように、かな文学は教養豊かな女官(女房)によって隆盛した一方で,貴族は公の場では漢字 を使用したが、藤原道長の日記 ( 19 ) のように,その文章は和風的な漢文であった。 かじきとう げんぜりゃ この時期の仏教は,加持祈疇により現世利益を追求する貴族と天台・真言宗が強く結びつい ほん じ すいじゃくせつ ごりょうえ 61% ていた一方、神仏習合の考えである本地垂迹説の思想も盛んとなり、御霊会も盛んに催さ くうや れた。これと同様に浄土教も流行し、10世紀半ばに空也が京の市で説いたのちに(20) おうじょうようしゅう ねんぶつ が 「往生要集」で念仏往生を説くことで貴族・民衆の間に流行した。さらに、末法思想によっ まっぽう しそう て浄土信仰はいっそう広まり、来世で救われたいと考える人々が増加した。ほかにも、経典 きょうづつ きょうづか を写経して経筒に入れて地中に埋める経塚も営まれた。 また, B しんでんづくり 美術工芸の作品も国風化の影響を受けており,寝殿造とい すまびょう う日本風の建築様式が使用された貴族の住宅内部は、襖や屏 まきえ らでん 風に d 大和絵が描かれた。 また, 蒔絵や螺鈿の手法を使用し さんせぎ た調度品も屋内に飾られ, 書道では三蹟と呼ばれる和様の名手の作品も重宝した。 藤原道長の ゅんじゅう らいこう ず が臨終の人を極楽浄土へ迎えに来る場面を描いた。 来迎図も多く描かれた。 ほうじょうじ びょうどういんほうおうどう どう 法成寺や図 B の平等院鳳凰堂は,浄土教が影響した阿弥陀堂の遺構である。 また、阿弥陀仏 げんぶく 貴族は10~15歳で男性は元服し、女性は裳着の式をあ しゅっし そくたい 上げて成人し、男性は官職を得て朝廷に出仕して、年中行事 などに奉仕した。 その際, 貴族男性は図Cの束帯や簡素化 した 女性は図Dの安房装業(十二単を正装とした。 一 小 一人 ・唐衣 19 一表者 藤原冬嗣を筆頭に北家が勢力をのばし、(1) 基経は,他氏排斥により摂政・関白の 地位を高めた。その後醍醐・村上天皇による親政が行われたが, 安和の変後に藤原忠平 が摂関政治を行い、藤原道長 頼通父子の時に最盛期を迎えた。外交では,唐滅亡後に建 国した宋や、中国東北部の ( 9 ) 朝鮮半島の (10)と国交を結ぶことはなかった。 Check Point - → がくるという説。 彼らの多くは左京に住んで常に在京し、食事は1日に2回 を限度として, その日の行動を吉凶によって決定するといった日常生活をおくったのである。 本地垂迹説 仏 (=本地)が人々を救 済するため, 神という仮 の姿となってこの世に現 れたとする思想。 御霊会 なぐさ 政治的に非業の死を遂げ た人の霊を慰める行事が. のちに疫病の流行を防ぐ 目的に変化した祭礼。 浄土教 阿弥陀仏を信仰し、来世 において極楽浄土に往生 し、そこで悟りを得て苦 をなくす教え。 末法思想 しゃか 釈迦の死後に、正法・像 法の時代を経て末法の世 ぽっぽう 貴族の住宅用建築様式で、 寝殿を中心に東対・北対・ 東北対が透渡殿・渡殿で 接続された。 わたどの 蒔絵 漆で描いた模様に、 金粉・ 銀粉を蒔きつける技法。 しんじゅこう 貝殻の真珠光を加工して 漆器に埋め込む技法。 おののみちかぜ THRE 小野道風・藤原佐理・藤 原行成の3人の名手。 なり 「藤原頼通が木造 宇治に建 立内部に じょうちょう。 仏師定朝 せり みだにょらいそう が寄木造で つくった阿弥陀如来像が 安置された。 宮中で毎年特定の時期に 行う神事・仏事 政務の 行事のこと。 問1 奈良・平安 問2 問3 問1 下線部aについて, この出来事を何というか。 問4 よししげのやすた 問2 下線部について、この両天皇の親政はのちに何と呼ばれてたたえられたか。 問3 下線部の人々のうち、往生をとげた人物の伝記を集めた, 慶滋保胤の著書は何か。問5 問4 下線部dについて、大和絵の名手であった平安時代前期の宮廷画家は誰か。 問6 問5 下線部eについて。 高野山が所蔵する阿弥陀如来と諸尊32体の来迎図を何というか。 問6 下線部fのうち吉凶により引きこもったり、凶の方角を避ける行為はそれぞれ何か。 ポテンシャル日本史 23

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古文 高校生

至急お願いします。 問5教えてください。

古典の常識(2) <ポイント2> (「徒然草」第一1三八段) ☆宮中で行われた「行事」=「年 中 行事」 平安時代は「暦」に従って、宮中の内外でさまさまな行事が催 された。ここでは古文によく出てくる、宮中での「行事」を中心 に学習しよう。いずれも大切な行事なので、古語辞典や国語便 覧を活用して、その読み方とともに、どのような行事であった (注)「御簾なる」 御簾にかけてある。 「はべり」→「~です」「~ま す」にあたる丁寧な言いかた。「よき人」→身分教養のある人。 「さるべきにやと」→そんなふうにするものだろうかと。 |線部「祭り」とは何祭りを言うのか。また、それは何月に 催される祭りか。年中行事にのっとって答えよ (日校の 間二 |線部の「御簾」とはどのようなものか。古語辞典を使って調 べ、簡潔に記せ。 (御豚紙の緊 かを記憶したい。 (*印は有名寺社の祭礼を示す) (4 月に催される) 祭り) あおうまー |m 四方拝(元日)叙位·白馬の節会 11m 祈年 祭·*初午の日.·*初申の日 置の専故語 マ コ4 らえ 11|E 曲水の宴·上巳の献 ミマ4 更衣,瀧仏会·*賀茂の祭り(葵 祭り) 川 |線部「色」の訳語として適当なものを、次の中から一つ選 マリ 端午の節供 * 祇聞,祭 柑換の節一 五月 び、記号で答えよ 六月 イ 様子 ゥ 情趣 H 顔色 * 恋愛 七月 へ こ -トはうコ4やえ 八月 *石清水放 生会 |線部「覚えはべりしを」に対応する主語はなにか。記せ。 かんなめきい 九月 重陽の節供·神嘗祭 )部· では、それぞれある語句が省略されている。省 略された語句を記せ。ただし、@部には文中の名詞一語、@部に は「係り結び」の「結び」にあたる決まり文句が入る。 十田 更衣·残菊の宴 問五 こさ和こ とよのあかりのせち え +1ロ→ 新嘗祭,豊 明 節会 4でそ4イう 十二月→ 御仏名·追僅(三十1日) [着眼点] 問-「年中行事」には多くの「祭り」がある。混乱しやすい ので、そ れぞれの特徴をしっかりとつかみたい。 練 習 問 題 0次の文を読んであとの問いに答えよ。 Q + 「祭り過ぎぬれば後の葵不用なり。」とてある人の、御簾なる(@ )をみな取らせられはべりしが、色もなく 覚えはべりしを、よき人 のしたまふ事なれば、さるべきにや[ @ ]と思ひしかど、 問三「色」は同音異義語であり、かつ、語自体の意味も深い。 問四省略の語句を問われたら、文脈をたどるか決まり文句で解決。

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古文 高校生

至急お願いします、 問4教えてください。

+ 九 月月 七 六 月月月 更衣,瀧仏会*賀茂の祭り(葵祭り) 端午の節供 四月 ー線部@「色」の訳語として適当なものを、次の中から一つ選 五田 び、記号で答えよ。 マ S * 祇園 祭 ア 色彩 イ 様子 ウ 情趣 H 顔色 オ 恋愛 相撲の節 トコでコよう *石清水放 生会 - 線部「覚えはべりしを」に対応する主語はなにか。記せ。 『4 4 rv 重陽の節供·神管祭 更衣·残菊の宴 ご部·では、それぞれある語句が省略されている。省 略された語句を記せ。ただし、@部には文中の名詞一語、○部に は「係り結び」の「結び」にあたる決まり文句が入る。 十月 問五 とよのあかりのせち え +一月→ 新管祭,豊 明 節会 4モ4う 十二月→ 御仏名·追雛 (三十一日 [着眼点] 問 -「年中行事」には多くの「祭り」がある。混乱しやすいので、そ れぞれの特徴をしっかりとつかみたい。 問間三「色」は同音異義語であり、かつ、語自体の意味も深い。 問四省略の語句を問われたら、文脈をたどるか決まり文句で解決。 練 習 問 題 0次の文を読んであとの問いに答えよ。 「祭り過ぎぬれば後の葵不用なり。」とてある人の、御簾なる〔@ )をみな取らせられはべりしが、色もなく 覚えはべりしを、よき人 のしたまふ事なれば、さるべきにや[ © ]と思ひしかど、

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古文 高校生

この回答持ってる人いますか?

注 ステップ2 読解)作中の歌に対する S a文法)助動詞3(推量·推定) 【内容】を確認 本文中の語句を 紀貫之 『土佐日記』 (型一) 〇参考図O 七日になりぬ。同じ港にあり。今日は白馬を思へど、かひなし。ただ波の白きのみぞ見ゆる。 物ども、長機に担ひ続けておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、 (住4) 4 |と名あ かかる聞に、人の家の、池と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと (掛m) 〈歌〉浅茅生 く評価)いと -池界生の野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。 (地の) 破龍持たせ 〈歌》行 〈評価)い 受 リ はらっづみ この長標のものは、みな人、童までにくれたれば、飽き満ちて、船子どもは腹鼓を打ちて、海を (注6) さへおどろかして、波立てつべし。かくて、この間に事多かり。今日、破龍持たせて来たる人、 その名などぞや、いま思ひ出でむ。この人、歌詠まむと思ふ心ありてなりけり。とかく言ひ言ひて、 《人々の (注7) 波の立つなること」とうるへ言ひて、詠める歌、 = 行く先に立つ白波の声よりもおくれて泣かむわれやまさらむ (知識を 重要古語 とぞ詠める。いと大声なるべし。持て来たるものよりは、歌はいかがあらむ。この歌をこれかれ あはれがれども、一人も返しせず。しつべき人もまじれれど、これをのみいたがり、物をのみ食」 (注8) 空欄に ひて、夜ふけぬ。 かひな- (出 ②とるに 白馬の節会。宮中の年中行事の一つ。 ー長方形の糧で、長持の類。棒を通し、一二人で肩にかついで運んだ 正月第一の子の日に、七種の若菜を吸い物として奉った ー野·小野にかかる枕詞。 -白木で折り箱のように作った、食物を入 2 長橋 8(とかく 6 4 浅茅生の 一揖取りの下で船を操る水夫。

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