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現代文 高校生

過去問なんですけど解答が貰えないらしくて 答え合わせができません、、、。少しでも答え合わせしたいので全てじゃなくて構いません。 答えを教えて欲しいです! 最後の三枚目の写真の問十二の選択肢 アーオまであります。 ウ 我慢できない エ あきらめるしかない オ 仕方がない

一、 次の文章を読んで、後の設問に答え 語彙の質を高める方法の第八は、「異なる立場を想定する」です。書き手の立場と読 です。同じ み手の立場が異なると、語の意味はズレをきたします。 B 手としては、自分の選択 同じ言葉なら、書き手と読み手が同じ内容を想像すると考えるのは 言葉でも人によって感じ方はさまざまです。そのため、 した語の解釈の幅を計算し、 C 手の目にその語がどう映るかを冷静に計算する必要 があります。 私の住んでいる家のそばに両親が引っ越してきました。歩いて七~八分の距離です。 子どもをアズかってもらうのに便利であり、首都圏から離れたところに実家のある近 pていいわねえ」とうらやましがられています。 所の親たちからは そこで、ある人に「うちのすぐそばに両親が引っ越してきまして」と話したところ、 Eわねえ」 「すぐそばってどのくらい?」と聞かれ、「七~八分です」と答えたら、 と言われてしまいました。聞けば、その人は、同じ敷地のなかの二世帯同居なのだそ うです。 (F)、ある人のブログを見ていたら、「最近、事情があって、都心から横浜の奥 地に引っ越してきました」と書いてあり、シンキンカンを覚えました。私は長いこと 横浜の「奥地」に住んでいたことがあるからです。 横浜市の南西のはずれにある泉区と いうところで、以前は区のシンボルマークが「トムトム」という豚でした。 高座豚とい 豚の産地で、相鉄線の駅を降りると、その臭いが漂ってきました。区内の道路を散 歩中に、牛に追いかけられて怖い思いをしたこともありました。九〇年代の話です。 こうざぶ (G)、その人のブログを見ると、横浜の「奥地」というのは青葉区の青葉台だ ったのです。 青葉台は、たしかに横浜の中心部である横浜駅やみなとみらい地区からは 離れていますが、都心へのアクセスもよいおしゃれな住宅街です。私にとってはだんじ て横浜の「奥地」ではありません。以前よほど交通至便なところにお住まいだったので しょうが、私はその人とはお近づきになれそうもないと思いました。奮発して食べた一 五〇〇円のランチが「H と言われたときの驚きに近く、住んでいる世界が違うと 感じられたからです。 書き手と読み手の感性の開きは土地の問題にかぎりません。私の教え子に中高一貫校 の国語の先生がいるのですが、その先生から、「古典は生徒にとって外国語学習なんで すよ」と聞いたことがあります。なぜかというと、古典を訳すときに、生徒は一様に 「現代語に訳す」ではなく、「日本語に訳す」と言うのだそうです。 語」ではな J語」という語を選んで言うところに、生徒たちにとって、古典はもはや K語ではなく L 語なのだという意識が表れているわけです。

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国語 中学生

国語が得意な方 (2)が分かりません 教えてください🙏

44 説明的文章 ⑥ 覚がないから、便所のスリッパのまま畳の部屋にはいりこんで主 基本問題 >>>>> わてさせたりするのである。 〈熊本> 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 日本人は住まい方において、内と外とを厳しく区別するという行動 様式を示す。最もはっきりしたその現われは、家の中にはいる時には 3このような家の内と外、部屋の内と外の区別は、物理的とい もむしろ心理的なものである。つまりそれは、意識の問題であり、 観の問題である。 あら [②という習慣である。今日のように鉄筋コンクリートのマンション そうごん に椅子とテーブルの生活という洋式を採用しているところでも、まずほ とんどの日本人はこの風習を守り続けているであろう。もちろん、西欧 社会でも、家に帰れば内履きにはきかえるということはよくあるが、そ れは私的な環境でくつろぐためであって、例えばお客を迎える時はきち んと靴をはくし、客も靴のまま家の中にはいって少しも怪しまない。だ が日本ではお客にたいしても靴を脱ぐことを当然のこととして要求する ので、慣れない外国人は当惑するということになる。 空間構造はつなが っているように見えながら、行動様式では内と外は明確に区別されてい るのである。 どの社会にも、聖なる空間を大切にする習慣があって、その 立派な教会堂や荘厳な神社が建てられる。だが西欧の教会建築は って内外の区別がはっきりしており、壁の内部は聖なる場所で、 は俗世間ということがかたちの上でも明確だが、日本の神社で聖 間を示すものは、物理的には境界として何の役にも立たない鳥 る。つまり一歩鳥居をくぐれば神の空間であるというのは、もっぱ れわれの意識の問題なのである。 とびし あいまい 似たような例として、お寺や日本式料亭の庭の飛石の上に、 十文字に縄をかけた小さな石が置かれていることがある。これは と呼ばれるもので、ここから先は立入禁止というしるしである。 れも、その気になれば簡単にまたいていけるもので、物理的には 碍にもならない。関守石の存在によって空間が区別されるのは、 れの意識のなかにおいてである。 がい 2 このことは、間仕切りの曖昧な家の中においても同じである。お客 にたいして、靴の代わりに室内用のスリッパを提供するというのは、今 ではごく普通に行われている。だがそのスリッパも、板の間や廊下なら F よいが、畳の座敷に上がる時は再び脱がされる。というよりも、普通の 日本人なら、スリッパのまま畳の部屋にはいることには、大きな抵抗感 があるであろう。あるいは、たいていの家では、便所にはまた別の専用 のスリッパがあって、そこでまたはきかえるということになる。日本人 にとっては、それはごく当たり前のことだが、西洋人にはそのような感 このように、眼に見えないかたちで内外の区別が成立する は、鳥居や関守石の意味についての共通の理解を前提とする。 そ の理解を持った集団、ないしは共同体が日本人にとっては「身内 リ「仲間」であって、その外にいる者は「よそ者」ということに 日本の家がしばしば「うち」と呼ばれるように、家族は「身内」の 14 to Be が見た場合いそ a LO tirinh, 60-100

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