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世界史 高校生

だれか助けてください😭全然わからないです

この税制は、8世紀後半に両税法にかえられるまで行われた。 何という税制か。 この法体系のうち刑法に相当する法のことを何というか。 漢字1字で答えよ。 問2 文中の下線部 (1)~(5) に関する, 以下の各問に答えよ。 (1) (2) ③ 熊北と江南を密接に結びつけるために、彼が行った大事業は何か。 番田 (3) 科挙ではどのようにして官吏を選出するのか、簡潔に答えよ。 (5) 3. 魏晋南北朝から唐代までの文化について,次の文中の空欄に適する語句を、 それぞれ [語群] から選び記号で答えよ。 ア A 儒教は,後漢時代に ( 1 ) らによる字句の解釈をめぐる訓詁学が発達した。 一方, 南北朝時代には仏教が中華文明世界に根をおろした。華北では, 五胡十六国時代の仏図澄 や(2) が布教に努め,江南では「仏国記』を著した東晋の人 3 ) の活躍などによ って貴族の間に流行した。北魏では, ( 4 )によって大成された道教が国教とされたが, やがて仏教が国家の保護を受けた。 B 江南の呉と東晋,および南朝の4つの王朝が交代した六朝時代には,貴族が主導する六 朝文化が花開いた。 詩の ( 5 ),書の ( 6 ),絵画の (7)らがこれを代表する。 これに対し北朝では,北魏の歴史地理書『水経注』や農業技術書 『(8)』のような、 実用的な文化が開花した。 C 華北と江南の文化が融合したことと、国際色豊かであることが唐の文化の特色である。 詩では( 9 ), 杜甫らが活躍し,書では(10) 遂良,絵では閻立本, (11) ら がでた。 D 唐の仏教は前代につづいて発展し, 『大唐西域記』を著した ( 12 ) や 『南海寄帰内法 伝』を著した (13) らにより, 仏典の漢訳と教理の研究もすすんだ。 [語群] ア陶淵明 オ 鳩摩羅什 寇謙之 イ法顕 カ 義浄 サ呉道玄 問1 文中の空欄 ■ 問2 下線部①の時代を何というか。 問3 ウ斉民要術 キ 顧愷之 シ鄭玄 5 に適する語句を答えよ。 4. 次の文章を読み、 あとの各問に答えよ。 下線部に関する問いに答えよ。 唐の滅亡後、 ① 華北では5王朝 (後梁 後唐・後晋・後漢・後) があいついで交替し、 地方では10あまりの国が興亡した時代が約50年つづいた。 後周の武将 (太祖)はこ れを統一し,960年に帝位について宋王朝を建て,都を河南省の2に置いた。太祖は 3の実権を奪って権力を皇帝に集中させ,科挙によって選抜された文人官僚を重んじ た。 彼らの出身母体は②新興地主層であり, 彼らは荘園を③小作人に耕作させ、やがて地 域社会をリードする ④名土層へと成長した。 11世紀のなかばより, 宋は国家財政が逼迫し、 第6代の神宗が4を登用して, 自作農や小商人の保護, 財源の確保、国防力の強化を はかる ⑤ 新法を行った。これによって財政は好転したが, 歴史家の 5 を代表とする保 守派の反対にあい, まもなく新法は中止され, 政界は新法党と旧法党との党争によって混 乱した。 下線部②のことを漢字3字で何というか。 4 エ 李白 ク 玄奘 ス 顔真卿 問4 下線部③のことを漢字2字で何というか。 問5 下線部④のうち、官僚を輩出した家のことを何というか。 -2- ケ 王羲之

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世界史 高校生

この問題の答えが分かる方、お願いします!! 分かるものだけで大丈夫なので教えてください。

7章 アジア諸地域の繁栄 83 44 演習 問題>>>>>> 1 [ティムール朝とサファヴィー朝 (12 明治大学より作成) 1 現在のイランにあたる地域は政治的には極めて複雑な歴史をたどっている。7世 問10 紀以降,イスラーム諸王朝の支配下にあったが,13世紀にはモンゴル人の勢力がお 2 よび,(O)国の支配下にはいった。(①)国ではその後イスラーム教が国教に定めら れ,そのもとでイラン=イスラーム文化が繁栄した。しかし14世紀にはこの国も分 3 裂して衰退し,代わって。ティムール朝がこの地を支配することになった。ティ の b彼の死後,帝国 5) a ムールは中央アジアから黒海沿岸にいたる大帝国を建設したが、 は次第に分裂し,最後は(②)人に滅ぼされた。 16世紀にはいると,イスマーイール1世がこの地に(③)朝を建国した。この国は, 6 シーア派の中でもとくに(④)派を国教とし,オスマン帝国と争った。(6)の時代 に最盛期を迎え,高度な文化を発達させた。また1622年に(6)をポルトガル人から問2a 奪回するなど,領土の確保にも努めた。しかし18世紀なかばにアフガン人に首都を b 攻略され,この王朝は滅亡した。 C 問1 文中の空欄0~6に適語を入れよ。 下線部a~cについて次の各問いに答えよ。 この王朝の首都はどこにおかれたか。 これによりティムール朝はどこへの遠征をとりやめることになったか。 c「世界の半分」とたたえられた,この時代の首都はどこか。 問2 a b 2 [オスマン帝国の隆盛1] オスマン帝国の建国者はオスマン1世である。彼は,(①)朝崩壊後の混乱に乗じ 問10 てアナトリア西部に自立し,オスマン帝国初代君主となった。14世紀なかば以降, オスマン帝国はバルカン半島に進出し,1366年に(2) (現在のエディルネ)を首都に した。1396年,(③)はニコポリスの戦いでバルカン諸国とフランス·ドイツなどの ③ 連合軍を撃破したが,その後,小アジアに進出した(④)と衝突し,1402年(5)にお いて大敗を喫した。しかし国力を回復させた(6)は,1453年にコンスタンティノー プルをおとしいれ,ついに(7)帝国を滅ぼした。このときコンスタンティノープル に首都が定められ,以後(8)の呼称が一般化した。 その後,第9代スルタンの(9)は,新興のサファヴィー朝を破った後シリアに進 出し,1517年には(10)朝を滅ぼしてエジプトを併合した。その結果,それまで(0) 朝の管理下にあった両聖都(メッカ·メディナ)の保護権を手に入れ, 以後オスマ ン帝国のスルタンは,カリフ政治の後継者として(D)派イスラーム教を守護する中 心の存在となった。 第10代スルタンの(12)の時代にオスマン帝国は最盛期を迎えた。彼はサファ ヴィー朝から南イラクを奪い,北アフリカにも支配を広げたばかりでなく,ハンガ リーを征服し,1529年には(13)を包囲して,ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。 さらに,1538年には(0)の海戦でスペイン·ヴェネツィアの連合艦隊を破り,地中 海の制海権を手中にした。 文中の空欄の~のに適語を入れよ。 2 (12 愛知工業大学より作成) 2 4 5 6 の 7 8 9 章 0 12 13 問1

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