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フランス革命

国民議会は3つの派に分かれていて、
一つが立憲君主派のフイヤン派
二つめが共和穏健派のジロンド派
三つめが共和急進派のジャコバン派

1791年憲法を制定したときは、立憲君主政をとっているため主にフイヤン派が国民議会をしきっていて、〈1791年憲法の制限選挙により、立法議会になる〉

1792.3は立法議会のジロンド派が主に立法議会を仕切っていて、ジロンド派内閣が成立ということでしょうか????
あくまで立法議会の中でのジロンド派内閣ということですよね、立法議会は立憲君主政をとっていたため、共和穏健派だけれど、考え方は立憲君主派よりだったということでしょうか??〈共和派にもかかわらず国王の権限を認めていたため〉

回答

✨ ベストアンサー ✨

立法議会が成立するまでの改革は、立憲君主制派が主導していました。
1971年憲法の制定したのは、フイヤン派が中心です。

1971年10月、制限選挙による「立法議会」が成立します。
ここでは、今まで主流だった立憲君主制を守ろうとするフイヤン派と、共和制を主張するジロンド派の2派が対立しました。

ジロンド派は革命を強化するために、立法議会で諸外国との開戦を主張しました。
革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンが、「ルイ16世の地位を保証しないと戦争を仕掛けるぞ」という内容の、ピルニッツ宣言を発していたからです。
ジロンド派は、「亡命貴族がオーストリアと組んで、革命をつぶそうとしている」と盛んに訴えて、開戦を議会と国王に迫りました。

1792年3月、国王の任命により、ジロンド派内閣が誕生します。
(あくまで、立法議会の中での内閣です)

立憲君主制なのに、なぜ共和派のジロンド派を国王が支持するの?と思うかも知れませんが、もちろん理由があります。

ひとつは、ジロンド派が穏健派であったため。共和制を求めてはいるが、国王の処刑までは求めていなかったからです。

もう一つは、国王も開戦を望んでいたから。
戦争に勝利すれば国王の威信を高められるだろうし、逆に敗北すれば、革命の崩壊を期待できたからです。

翌月、満場一致でオーストリアに対する宣戦布告が可決され、対外戦争が開始されます。
が、オーストリアとプロイセンの連合軍に、フランスは各地で敗戦。
この責任を取ってジロンド派内閣は罷免され、フイヤン派内閣が組織されます。
内閣は祖国の危機を全国に訴え、各地から多数の義勇兵がパリに集まります。

国王にとって誤算だったのは、ジャコバン派が、フランス軍の劣勢の原因が国王が諸外国と通じている、と主張したことでした。
ジャコバン派は、義勇兵やサン=キュロットに呼びかけ、国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃します。
国王一家はタンプル塔に幽閉され、王権は停止されました。(8月10日事件)

1792年9月、立法議会は、新たな憲法をつくり直すため、男性普通選挙による国民公会の召集を決定して解散します。

国民公会は、開会後、ただちに共和制の樹立を宣言しました。

はなまる

とても、丁寧な説明本当にありがとうございます🥺🥺すごくわかりやすくて、助かりました!!!!

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