世界史
高校生
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17世紀のイギリスの王と議会の関係性について教えてください。お願いします🙇‍♂️

回答

✨ ベストアンサー ✨

17世紀のイギリスといえばステュアート朝があげられます。
ステュアート朝初代ジェームズ1世は王権神授説を理由に王権の絶対性を主張します。この時、自らこの事に関する出版物を出してます。それに対して議会(主にエドワード=コーク)は「コモン=ロー」を掲げて法の優先を主張するようになります。またジェームズ1世はイギリス国教会を柱とする考えの下に議員のピューリタンを弾圧します。
彼の息子であるチャールズ1世もまた父と同じく王権神授説を主張します。そして当時起きた国際戦争「三十年戦争」の戦費を得るべく課税しようとしますが議会は反発、「権利の請願」を提出して議会の承認を主張しました。しかしチャールズ1世は無視し、議会を解散しました。しかしスコットランド反乱にて一変、戦費調達のためにやむおえず議会を招集しましたが、3週間で解散(短期議会という)、その後再び議会を招集します(長期議会)がこの時既に王党派VS議会派が内乱へと変化しました。これがピューリタン革命です。
ピューリタン革命にてオリバー=クロムウェルがチャールズ1世を処刑し、コモンウェルスをひき、上院を廃止した一院制となりました。…としたもののクロムウェル自身護国卿としての地位を利用した民主制には程遠い政治体制を引いていました。
王政復古後チャールズ2世が即位するものの、彼はカトリック信仰者であったため、カトリックを普及しようとします。しかし議会は黙っているわけではなく猛反発、審査法や人身保護法などを制定して対立姿勢を示しました。またジェームズ2世即位前に王位継承を支持するトーリー党と反対するホイッグ党の対立もありました。
ジェームズ2世においても変わらず対立は激化、議会はジェームズ2世を追放し、新たにメアリとオランダ総督ウィレムをメアリ2世とウィリアム3世として迎え入れ、2人は「権利の宣言」を承認、その後改めて「権利の章典」として制定されました。この名誉革命と呼ばれる出来事において、立憲君主制とイギリスにおける議会政治の原則が確立されました。

要するにジェームズ1世において仲が悪かった王室と議会が名誉革命にて仲良くなったという事です。

TK

とても詳しく教えていただきありがとうございます!

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