✨ ベストアンサー ✨
神聖ローマ帝国以来、ドイツは、内部分裂状態が続き、多数のドイツ人国家が成立しています。
プロイセンやオーストリアはその代表でしたが、ナポレオンに徹底的に叩きのめされてしまいます。
国民国家として発展しているイギリス・フランスに対して、分裂状態のドイツ(プロイセンはその一部と言えます)は、軍事的にも経済的にも全く歯が立たなかったわけです。
そんな中、フィヒテはフランス(ナポレオン)占領下のプロイセンの首都ベルリンで連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を行い、ドイツ国民の統一や経済的自立を訴えます。
プロイセンを中心としたドイツ統一までまだ六十数年かかりますが、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」が、敗戦で悲痛な状態のドイツ国民に希望の光を灯したとも言えます。
それでプロイセン改革(=ドイツ統一への第一歩)として挙げられているのではないかと。
とても丁寧な解説ありがとうございます。
分裂状態にあるドイツの一部がプロイセンであり、ドイツ統一に向けてのプロイセン改革だったのですね!
理解が深まって良かったです✨