✨ ベストアンサー ✨
その認識で良いと思います🙆
日本史ではもう少し深く学ぶので、一応補足しておきますね。
1915年袁世凱の帝政復活と、21ヵ条の要求が行われます。
1916年袁世凱の帝政復活に対し、他国から批判が殺到します。その後、袁世凱も亡くなり、段祺瑞が中華民国の政権を引き継ぎます。
その翌年の1917年に西原借款です。
当時日本の総理大臣は寺内正毅です。彼は朝鮮総督府の初代長官でもあり、アジアへの進出に積極的です。
しかも、中国は政権交代直後のこともあり、荒れています。財政的にもきつい状態でした。
そこに、日本が経済的支援を行います。お金を貸し付けることで、中国で優位な立場を築こうとしましました。1915年の二十一ヵ条の要求と合わせて、中国をガッツリ支配しようとしていた事が想像つきます。
しかし、この貸付は段祺瑞政権が崩れて、新しい政権が誕生すると、揉み消されました。名目上は「西原さんが行った個人の貸付」でしたので、正式な手続きではありません。そのため、日本も強く言い出せませんでした。(西原借款は失敗に終わる)
→あからさまに貸付をすると、日本の狙いが他国にバレて批判されるため。
中国では、二十一ヵ条の要求と西原借款での日本の思惑がバレたので、反日運動が起こります。→五・四運動
このような感じです。🙏
余計なところまですみません。分かりにくいところがあれば言ってください。🙏
今持ってる少ない知識がつながった気がします!!!詳しくありがとうございました🙏!!