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まず三別抄の乱は、軍隊による反乱ですので、民衆の反乱とは言えません。
形式的にはモンゴルに屈服した政府に対する反抗を掲げていますが、もともとが高麗の政権内部で混乱や裏切りを引き起こしているやらかし集団でもあるので、結局は高麗内部の政権争いの延長と見ていいのではないかと思います。
もともと高麗の両班は、文臣(文班)>武臣(武班)でしたが、12世紀末に武臣である崔氏が政権を掌握し、その私兵組織として三別抄が成立します。
三別抄は崔氏政権崩壊後もいろいろやらかしていますが、13世紀にモンゴルが高麗を服属させると、モンゴルの支援を受けた王族に三別抄を解散しようとすると、それを機に自立します。
それから高麗・モンゴル連合軍に完全に鎮圧されるまでを三別抄の乱(1270~73)といいます。
三別抄はモンゴルに屈した高麗政府に対して、自らが正統だとして鎌倉幕府に救援を求めたりしていますが(鎌倉幕府は黙殺)、モンゴルに対して「半島西南部をくだされば従います」なんて交渉もしてますので、モンゴルに対する抵抗というより、高麗内部での政権争いの要素が強いのでしょう。
また、三別抄が民衆の支援を受けたという記述をする本もありますが(平凡社ライブラリ)、実際問題として民衆の力は全体の流れを左右するものではなかったようです。