歴史
中学生

民撰議員設立の建白書が出る前に征韓論が敗れたと言うことを最近知ったのですが、征韓論が破れると言うのは、大久保利通などが西郷隆盛などの派遣を延期したと言うことですか?
そしてこの征韓論が破られたことで、大久保利通などの藩閥政府が台頭し自由民権運動の高まりにつながったのですか?

回答

高校レベルの話になってしまいますが、、
大久保利通らは岩倉使節団として海外に渡っています。そこで留守政府として日本を任されたのが西郷隆盛や板垣退助などです。そこで朝鮮に乗り込んで国交結んでやろうと考えたのが征韓論です。「韓」国を「征」服するからですね。
しかし岩倉使節団のメンバーは海外に渡ったことで日本国内がどれだけ他国と比べて遅れているかを痛感します。そこで少し難しい言葉ですが「内治優先」海外よりまずは日本国内をちゃんと整えてから海外に手を出そうという方針を立てます。この対立のせいで留守政府側は下野(げや 政府の人間から一般人になること)しますこれを発展的ですが明治六年の政変と呼びます。
そしてこの板垣退助がくそう政府め!!となり自由党を作り民撰議院設立建白書を左院に提出します。

大隈重信も政府側の人間でしたがいろいろいざこざがあり(省きます。興味あったらまた聞いてください^_^)下野します。これを明治十四年の政変といい、その後立憲改進党を結成。反政府側で戦います。

明治六年、十四年の政変は名前がかっこいいのでわざわざ打ちました^_^

わかんないことあったら聞いてください

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