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中学全学年
ミリオタであり文芸部でもある暇神がこれでもかと自分の知識を詰め込んだ作品
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最後の短所です!
上述の通り、有坂銃はボルトアクション小銃としては極めて堅牢な構造と多重の安全機構を持ち、モーゼルのM98アクションと並んでボルトアクションの横綱と評される事も多いが、上述の技術的特徴が表裏一体で(モーゼルM98アクションを下敷きとした)現代的な設計のボルトアクションと比較した際の有坂銃の短所ともなっている。
コックオン・クロージング方式は薬室開放時の槓桿の操作力の低減の面では、モーゼルのコックオン・オープニング方式と比較して分があるが、閉鎖時の操作力はコックオン・オープニング方式と比較して大きな力が必要となり、開閉操作のスムーズさにもやや欠けるとされ、不発の際の素早い再コッキングも行えない短所がある。撃茎を覆い隠してしまう撃茎駐胛による2ポジション式安全装置は、頑丈ではあるものの射撃場においてはコッキングの状態を外見から目視確認できない安全上の不安要素となり、モーゼルの3ポジション式旗安全器のように撃針を固定した状態での薬室開放が不可能な為、極めて低い確率ではあるが脱包の際の薬室解放前の引鉄の誤操作、或いは薬室開放中の逆鈎の破損に起因する暴発を阻止できない欠点がある[21]。現在コスト上の理由で2ポジション式を採用する場合、豊和M1500(ウェザビー・バンガード)やレミントンM700のように、「逆鈎を固定する方式」としてボルトの固定機能を廃してでも薬室解放時の安全性を優先するのが基本である[22][注釈 10]。
避害筍による引鉄の安全機構は、上記の2ポジション式安全装置の欠点をある程度補う効果こそ期待できるものの、時として撃茎駐胛の安全解除(左回転)の際に槓桿が動いて発射が不能となる不具合をもたらし、運用上もコックオン・オープニングの多くの銃で可能な「引金を引きながらゆっくりボルトを開閉する事で、撃針を安全にデコッキングする」操作が行えず、必ず空撃ち[注釈 11]か発射を行わねばならない[23]。モーゼルを始めとするコックオン・オープニング式は、コックオンのカムの構造上、たとえ槓桿が多少上がった状態で撃針を落としたとしても、撃針がカムに衝突して槓桿を強制的に閉鎖方向へ動かす動作を行う為、避害筍のような安全対策を採る必要がない[23]。また、「発射瞬時の開放不能」という機能性に関しては、53式信号拳銃などの元折式の鉄砲で発射瞬時に完全解放に至る事故事例が数例あり[24]、1980年代初頭までのウィンチェスターブランドの散弾銃[注釈 12]ではこうした事故を防ぐ対策が採られていた例もあったが、元より極めて発生頻度の低い事例である為に、今日販売される民生銃器ではこうした構造はほとんど省略されている[25]。
極めて分厚い薬室と銃身のクロームメッキは、制式採用後100年近くを経過した現在でも良好な射撃性能を発揮する要素の一つとはなってはいるものの、(兵士の寿命と一体である事を前提とした)消耗品としての軍用銃、(短いライフサイクルでのモデルチェンジを前提とした)商品としての民生小銃としては過剰性能でもある。また、純粋な静的射撃用ライフルとしてはライフリングの均一性を損ねる要素となるため、銃身内へのクロームメッキは忌避される事が多い[26]。
構造や特徴です!
有坂銃は90度の開閉角度を持つコックオン・クロージング方式の回転式ボルトアクションで、構造上は1ピース構造で先端に2つの閂子(ロッキングラグ)を有する遊底(ボルト)を持つ為にモーゼル系列に分類される。コックオン・クロージング方式ではあるが、実際は槓桿(ボルトハンドル)を起こすと1/3程撃茎(ストライカー)がコッキング(ハーフコック)され、一度薬室を開放して遊底を再び閉鎖する際にコッキングが完了(フルコック)する、コックオン・オープニング方式との中間的な動作である。槓桿は一部の狙撃銃版を除いて、ストレートタイプが採用されている。弾倉はフロアープレート方式の箱形五発内蔵弾倉で、装填は薬室を開放して排莢口から1発づつ押し込んで行うが、ストリッパークリップ式の挿弾子を用いる事でより素早い装填が行える。フロアープレートは残弾が無い際には包底面に干渉して遊底の閉鎖を阻止する為、これにより射手に残弾が無くなった事を知らせる仕組みである。弾倉からの脱包は用心金(トリガーガード)内に設けられたフロアープレートのストッパーを解除して、フロアープレートを開放する事で行われる。銃床は桜材を用いており、銃尾部は上下2分割構造とする事で、木材の有効活用を図っている。
前身の村田銃との比較では、十三年・十八年式村田単発銃は槓桿を起こした時にコッキングが完了するコックオン・オープニング方式で、槓桿と機関部(レシーバー)の嵌合部以外に閉鎖機構を持たず、抽筒子(エキストラクター)こそ備えられているものの、蹴子(エジェクター)を有さなかった為に排莢を完了するには手で直接薬莢を排除する必要があった。しかし有坂銃は包底面(ボルトフェイス)に閂子や可動式の蹴子が設けられ、槓桿自体も補助的な固定式閂子(リアラグ)の機能を果たす事で、より強力な弾薬の使用や素早い排莢を実現できた。また遊底止(ボルトストッパー)は、村田単発銃のマイナスネジによるものからラッチ式に変更されたので、部品の紛失のリスクが無くなり、遊底の脱着もより迅速に行えるようになった。さらに二十二年式村田連発銃は、銃身と平行して管形八発弾倉を有していたが、装填の作業性に難があり重量バランスが悪く[注釈 4]、詰め込まれた弾頭が実包底部の銃用雷管を突く事による弾倉内での弾薬の誘爆事故を防ぐ為に、平頭弾頭しか使用できない事から弾道特性や集弾性の悪化を招いていた。これに対し有坂銃は一般的な箱形弾倉を採用した事で装弾数は減ったものの、挿弾子による素早い装填やより良い重量バランスの獲得、尖頭弾頭の採用による高い集弾性能を実現できた。これらの構造の相違から、有坂銃は村田銃と比較してはるかに高い射撃性能を持つと見なされている。
最初に登場した三十年式は同時期のモーゼルM1896(スウェディッシュ・マウザー)を参考にしたとみられ、村田銃や同時期の他国のボルトアクション同様に、ボルト後端にコッキングと共に後退する撃茎(コッキングピース)を有しており、撃茎の前進を阻止する事で撃発を防止するセーフティ(安全装置)が備えられていたが、全面改良型の三八式では遊底内部の構造が大きく改められ、これをもって有坂銃は完成形となった。それに先だって三十年式の一部改良型である三十五年式海軍銃では、日露戦争での砂塵による作動不良の戦訓を踏まえ、手動式の遊底覆(ダストカバー)が備えられた。この構造は続く三八式にも受け継がれ、遊底と一体化して前後する自動式の遊底覆へと発展したが、もし遊底覆が銃に適合していないと、遊底の開閉時に若干の金属音を発する為、隠密行動を執る用途では任意で取り外される場合もあった。
三八式初期型の撃茎駐胛、側面の突起(のちに溝)は安全位置では上方を指す
三八式では遊底後端の可動式の撃茎が露出する構造を廃し、代わりに撃茎を直接押さえる回転式の撃茎駐胛(げきけいちゅうこう、セーフティノブ)が撃茎後端を覆い隠すような形状で備えられた。この構造変更により、コッキングされているか否かを銃の外側から目視確認する事や、不発などの緊急時に撃茎を外部から直接引く事で再コックを行う事などは不可能となったものの、可動部分が減った為に部品点数が減り、Gew98[16]と比較しても極めて簡素な構造となった[17]他、撃茎駐胛が遊底後端の栓の役割も果たす事で、万一弾薬の異常高圧で包底面が破壊され撃針側に発射圧が吹き抜けた際に、撃針が撃茎ごと射手の顔面へ吹き飛ばされる可能性[注釈 5]も大きく減じられる事となった。撃茎駐胛は外見は肩胛骨に類似した形状で、掌や指で押し回す事により操作する。三十年式では引金状のレバーを引いて右に回す事で撃茎を固定する構造であったが、酷寒の満州で分厚い防寒手袋をはめた状態での操作に難があるという戦訓[注釈 6]により、右に押し回す操作方法に変更されたが、これにより寒暑に関係なく迅速な操作が行えるようになった[18]。撃茎駐胛を安全位置(右方向)に回転させた際には突起が銃身上方に立ち上がり、射手に安全位置を明瞭に示すものとなっており、この際に撃茎側の切り欠きに撃茎駐胛側の切り欠きが噛み合う事で撃茎の前進を阻止する。同時に、機関部側の溝に撃茎駐胛側の突起が噛み合う事で遊底の固定も行われる。Gew98の旗安全器と異なり、安全状態で遊底の固定のみを解除するポジションは存在しない2ポジション式である。なお、この際に引鉄(トリガー)は固定されないので、引鉄を引く事自体は可能である点が、後世のスポーツライフルとの違いである[5]。撃茎駐胛は遊底開放状態でノブのみを取り外す事が出来るので、撃針折損時の交換作業は遊底を銃に付けたままの状態で行う事ができた。操作性自体も極めて良好で、他の日本軍の小火器と異なり、安全解除は銃を構えた状態で親指のみで行う事ができた[注釈 7][5]。
引鉄側の安全機構としては逆鈎(シアー)の先端に避害筍(ひがいじゅん)と呼ばれる突起が設けられており、槓桿を完全閉鎖の位置に降ろした時のみに遊底側の溝と避害筍が噛み合うようになっているため、僅かでも槓桿が開放側に開いていると引鉄を引く事が不可能となる。また、撃茎は遊底のカムで後方に押し下げられる構造となっているが、約30度槓桿が開くと(閂子噛み合いが約70%以下となると)撃茎は万一逆鈎が破損して前進した場合でもこのカムに当たって撃針先端が包底面から出る事は無くなる[19]。有坂銃は前者と後者の組み合わせにより不完全閉鎖時の発射不能を実現しており、前者の構造により引鉄を引いている際には槓桿の回転も行えなくなる為、発射瞬時の薬室開放不能をも実現している[5]。この為、有坂銃は今日のボルトアクションと比較しても高い安全性を有しているとされている。
上記の安全策に加えて、薬室の上面とボルトの下面にはそれぞれガス抜き用の小穴(前者は後述)が設けられ、また撃茎(ストライカー)は後半分が太くなるよう加工されており、もし異常腔圧が発生した際に、高圧ガスが後方へ吹き抜けるのを予防するよう配慮されている。ボルトハンドルの基部は閉鎖状態でレシーバー側とかみ合っており(ただし接触せず僅かなすき間がある)、万一ボルト先端のロッキングラグが破断した場合に、ボルトが後方へ抜け出るのを防止するセーフティーラグを兼ねている。
三八式以降の銃身側の特徴としては、極めて分厚い薬室と銃身内部のクロームメッキ処理が挙げられる。有坂銃の薬室の肉厚は64式小銃の開発者の一人でもあった伊藤眞吉の資料[20]では、九九式は62式機関銃(8.6mm)やGew98(10.7mm)を凌駕する11.4mmの厚さ[注釈 8]を備えており、異常高圧時に発射ガスを銃身上方に抜く為のガス抜き孔が1つまたは2つ設けられていた。九九式からは銃身内部にも末期型を除いて銃身命数を延長する目的で分厚いクロームメッキが施され、施条(ライフリング)が保護されている事により、今日でも良好な集弾性能を発揮する要因となっている。包底面に備えられた抽筒子も極めて大きな鈎爪状のものが採用されており、これらの構造上の特徴から、有坂銃は極めて簡素かつ堅牢な構造を有しているともされている。
また、有坂銃は多くは1mを超える長い全長を持ち、30cmから40cmもの刃渡りを持つ銃剣を組み合わせる事で、銃剣術を極めて強く意識した運用が行われた。有坂銃のこの設計思想は銃剣道における木銃の寸法[注釈 9]のみならず、今日の陸上自衛隊や日本の警察の小銃の運用思想や白兵戦術に至るまで強い影響力を残し続けている。
ただし、民間の狩猟・標的射撃向けとしては、現在でも民間弾薬メーカーによる6.5mm及び7.7mm実包の市場供給が続いている為、海外では愛好家の手により多くの有坂銃の現存品が現役の猟銃として使用され続けている。銃刀法の規制により、そのままの姿での日本への里帰りは無可動実銃を除いては難しい状態であるが、着剣装置の除去や銃床交換などによる外見のスポーツライフル化、或いは410ゲージ散弾銃への改造などを経て許可銃としての逆輸入を果たし、日本国内で運用されている例も散見される[要出典]。
遅くなってすみません!
有坂銃は、駐留していた旧日本軍の武装解除が行われた国や地域では、そのままの状態もしくは弾薬変更の為の薬室改造などを経て軍用銃として配備されていた例もあったが、冷戦体制下では多くの国が西側諸国または東側諸国の軍事援助を受けた為、有坂銃は東西両陣営の新鋭の自動小銃や突撃銃に急速に置き換えられ、或いは有坂銃と共に接収された実包の枯渇と共に退役し姿を消していった。イギリス連邦下のSMLE小銃や旧共産圏諸国におけるモシン・ナガン小銃のように、現在でも組織的に制式小銃として実戦部隊に配備されている例は皆無であり、ごく僅かに東南アジアの反政府武装勢力が実戦で使用している例が残るにすぎない[8]。
日本の自衛隊も警察予備隊時代の一時期に.30-06弾用に改造された九九式口径.30小銃を配備していた。1950年のM1カービン、1951年のM1ガーランドの供与に次いで、約7万5千挺がGHQにより日本側への返還が行われ、薬室改造を施した上で予備装備として1952年より運用が始まったが[9]、九九式口径.30小銃は制式型、戦時型[注釈 1][10]、二式小銃などの部品が入り混じり互換性を失っていた事、弾薬統一のため[11]に.30弾薬M2を使用できるように改造した事で、その重量の軽さ(M1ガーランドに比べ12%軽い)も相まって反動が増加しており[12]、銃身側に特に改造を加えずに本来よりも口径の小さな弾頭を発射する事により、弾道特性や集弾性も悪化した[13]。カービンやガーランドですらも幾多の戦闘を経て老朽化しており、様々なレベルでの故障が発生した[11]が、これは九九式口径.30小銃も例外ではなく、後年には「安全装置を掛けていても、引き金を引くと発火する」「発砲中に銃身が割れる」といった問題が多発した[12]。新小銃(後の64式)の開発が行われている最中の1961年には、検査の為に500挺の九九式口径.30小銃が豊和工業に持ち込まれ、九九式の開発に関わり、64式の開発を手掛けていた岩下賢蔵も加わって行われた検査の結果、遊底、撃針(撃茎)、安全子(撃茎駐胛)の合格点数はゼロ、尾筒は2個、撃針止バネ37個が合格するに留まるという有様で、銃として満足できるものは1挺もなかった[14]。この結果を報告された陸上幕僚監部は、即刻九九式口径.30小銃の射撃禁止措置をとった[15]。
こうした事情もあり、64式小銃配備を前にして有坂銃は速やかに退役させられ、64式小銃配備後も儀仗用としてはM1ガーランドが選択され、旧日本軍の色濃い有坂銃を組織内に残す事をしなかった[10]為、アメリカ軍におけるM1903小銃のように儀仗銃として母国の軍事・公安機関で現用品として余生を送る機会も与えられなかった。
有坂銃の現存の状況は、戦前に民間に払い下げられた為に村田式散弾銃として現在も往時の姿を僅かに日本国内に残す村田銃とも異なる。敗戦時に日本国内で進駐軍に接収された膨大な数の有坂銃はほとんど全て廃棄処分された為、旧イタリア王国のカルカノM1938ほど多く欧米の銃器市場にも現存していない。有坂銃を製造していた砲兵工廠や関連する軍需産業も敗戦と共にほとんどが解体・消滅させられ、僅かに生き残った後裔企業[注釈 2]や、その他の銃器メーカー[注釈 3]も有坂銃の構造的な特徴(有坂アクション)を引き継がなかった。このことから、旧ドイツ第三帝国のモーゼル・Kar98k(モーゼル・モデル98)や、旧オーストリア・ハンガリー帝国のステアー・マンリッヒャー・ショウナワー(ステアー・マンリッヒャークラシック)の様に、当時の軍用アクションをそのまま製品化した民生向けライフル(シビリアンモデル)が製造される事もなく、南部式拳銃の系譜共々、有坂銃の技術的な系譜は完全に断絶したまま現在に至っている。
ただし、民間の狩猟・標的射撃向けとしては、現在でも民間弾薬メーカーによる6.5mm及び7.7mm実包の市場供給が続いている為、海外では愛好家の手により多くの有坂銃の現存品が現役の猟銃として使用され続けている。銃刀法の規制により、そのままの姿での日本への里帰りは無可動実銃を除いては難しい状態であるが、着剣装置の除去や銃床交換などによる外見のスポーツライフル化、或いは410ゲージ散弾銃への改造などを経て許可銃としての逆輸入を果たし、日本国内で運用されている例も散見される[要出典]。
有坂銃は、駐留していた旧日本軍の武装解除が行われた国や地域では、そのままの状態もしくは弾薬変更の為の薬室改造などを経て軍用銃として配備されていた例もあったが、冷戦体制下では多くの国が西側諸国または東側諸国の軍事援助を受けた為、有坂銃は東西両陣営の新鋭の自動小銃や突撃銃に急速に置き換えられ、或いは有坂銃と共に接収された実包の枯渇と共に退役し姿を消していった。イギリス連邦下のSMLE小銃や旧共産圏諸国におけるモシン・ナガン小銃のように、現在でも組織的に制式小銃として実戦部隊に配備されている例は皆無であり、ごく僅かに東南アジアの反政府武装勢力が実戦で使用している例が残るにすぎない[8]。
日本の自衛隊も警察予備隊時代の一時期に.30-06弾用に改造された九九式口径.30小銃を配備していた。1950年のM1カービン、1951年のM1ガーランドの供与に次いで、約7万5千挺がGHQにより日本側への返還が行われ、薬室改造を施した上で予備装備として1952年より運用が始まったが[9]、九九式口径.30小銃は制式型、戦時型[注釈 1][10]、二式小銃などの部品が入り混じり互換性を失っていた事、弾薬統一のため[11]に.30弾薬M2を使用できるように改造した事で、その重量の軽さ(M1ガーランドに比べ12%軽い)も相まって反動が増加しており[12]、銃身側に特に改造を加えずに本来よりも口径の小さな弾頭を発射する事により、弾道特性や集弾性も悪化した[13]。カービンやガーランドですらも幾多の戦闘を経て老朽化しており、様々なレベルでの故障が発生した[11]が、これは九九式口径.30小銃も例外ではなく、後年には「安全装置を掛けていても、引き金を引くと発火する」「発砲中に銃身が割れる」といった問題が多発した[12]。新小銃(後の64式)の開発が行われている最中の1961年には、検査の為に500挺の九九式口径.30小銃が豊和工業に持ち込まれ、九九式の開発に関わり、64式の開発を手掛けていた岩下賢蔵も加わって行われた検査の結果、遊底、撃針(撃茎)、安全子(撃茎駐胛)の合格点数はゼロ、尾筒は2個、撃針止バネ37個が合格するに留まるという有様で、銃として満足できるものは1挺もなかった[14]。この結果を報告された陸上幕僚監部は、即刻九九式口径.30小銃の射撃禁止措置をとった[15]。
こうした事情もあり、64式小銃配備を前にして有坂銃は速やかに退役させられ、64式小銃配備後も儀仗用としてはM1ガーランドが選択され、旧日本軍の色濃い有坂銃を組織内に残す事をしなかった[10]為、アメリカ軍におけるM1903小銃のように儀仗銃として母国の軍事・公安機関で現用品として余生を送る機会も与えられなかった。
有坂銃の現存の状況は、戦前に民間に払い下げられた為に村田式散弾銃として現在も往時の姿を僅かに日本国内に残す村田銃とも異なる。敗戦時に日本国内で進駐軍に接収された膨大な数の有坂銃はほとんど全て廃棄処分された為、旧イタリア王国のカルカノM1938ほど多く欧米の銃器市場にも現存していない。有坂銃を製造していた砲兵工廠や関連する軍需産業も敗戦と共にほとんどが解体・消滅させられ、僅かに生き残った後裔企業[注釈 2]や、その他の銃器メーカー[注釈 3]も有坂銃の構造的な特徴(有坂アクション)を引き継がなかった。このことから、旧ドイツ第三帝国のモーゼル・Kar98k(モーゼル・モデル98)や、旧オーストリア・ハンガリー帝国のステアー・マンリッヒャー・ショウナワー(ステアー・マンリッヒャークラシック)の様に、当時の軍用アクションをそのまま製品化した民生向けライフル(シビリアンモデル)が製造される事もなく、南部式拳銃の系譜共々、有坂銃の技術的な系譜は完全に断絶したまま現在に至っている。