日本史《中世①》

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我身脛地更

我身脛地更

高校全学年

源氏・平氏

ノートテキスト

ページ1:

No.
DATE
5.
I
武家社会の形成
1、院政の開始
1069年
関白藤原頼通の娘に皇子がうまれなかったことから、摂関家の外寂
としない後三条天皇が即位した。
〃荘園整理令~記録荘園券契所をおいて、不法な荘園を禁止しようと
した。
⇒国司と荘園領主にそれぞれ書類を提出させ、政府が直接きびしく審査し
たので、摂関家は大きく打撃をうけた。
°
つづく白河天皇もみずから政治を行おうとした。
1086年
幼少の堀河天皇に位をゆずったのちも、上量として御所に院庁をひらき、天
皇を後見しながら、政治の実権を握る院政をするようにした。
⇒父が自分の系統に皇位を伝えようとする形態。
○摂関家におさえられていた中・下級貴族や上皇の乳母の近親者などを院近
や院司に組織して政治的基盤とした。
Q
た。
源氏・平氏の武士を北面の武士や検非違使に任じて、軍事的基盤を整え
2.
院政時代
○上は、天皇からの任命を必要としなかったので、法と慣例に従わず、専制的
政治が行われた。
。
上の意思を示す院置や、院庁から下される院庁下文が強い力をもつようになる。
⇒ 鳥羽・後白河上皇をふくめ、ほぼ1世紀にわたって続く。
○共通点は、仏教を厚く信仰したことで、出家し法皇となり、紀伊の熊野詣や高野
詣を何度も行い、法勝寺や六つの大寺(六勝寺)などを建てた。

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○知行国制~一国の経済的収入を、皇族や特定の貴族に委ねる。
⇒寺院や、院の御所、離宮などをつくる費用をあてるため。
⇒一国の支配権を与えられた者を知行国主といい、子で近親者を、国家に
任いて、経済的収益をにぎった。
⇒荘園も、上皇の保護を期待して、集まった。
○院の権力をおびやかしたのは、上皇の仏教の厚い信仰をへて勢力を築いた
大寺院である。
○下級の僧侶や武士を僧兵にして、国司と争ったり、神木や神輿をおしたて、
朝延に強訴。
⇒
興福寺・延暦寺(南都・北嶺)の僧兵が威勢をふるった。
3.保元・平治の乱
No.
DATE
〔〕
<平氏>
<源氏>
<藤原>
<天皇>
忠盛
忠実
鳥羽
忠正(父)
⇒較道
為頼(父)、為朝(弟)
道
⇒伊豆へ配流
V S
頼長(弟)
傷死
崇徳(兄)
讃岐へ配充
lose.
清盛()
義朝(兄)
忠通(兄)
後白河(弟)
Win
1156年〃
鳥羽上皇が亡くなる。
〔平治〕
0
保元の乱~朝廷内の主導権や、寄進によってうまれた荘園の支配
権をめぐってひきおこされた。
貴族社会の内部の争いも武士の力がいることが示された。
・平治の乱~
藤原通点(信)
清盛
盛重
(平家)
殺害
Win
VS
藤原信朝
義朝
義平
頼朝
⇒死刑
⇒敗死
⇒死刑
⇒流
lose.

ページ3:

No.
DATE
4,
平氏
○清盛が勝利したことで、武家の棟梁としての実力を得ると同時に、他の近臣
の勢力もしりぞけて、後白河院政を背景に全盛の基礎を固めた。
・栄華
°
・清盛は日貿易に力をいれ、瀬戸内海航路を整えて、大和田泊(現
神戸港)を修築し、畿内にひきいれた。
⇒高級織物、香料、書籍といった輸入品は更に清盛の富を大きくした。
○一族も高位高官に就き、娘の徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮
となり平氏にあらざれば、人におらず」と言われるようになった。
⇒平氏以外の圧迫された勢力から強い反発をうける。
1177年:鹿ヶ谷の陰謀~院近臣の藤原成親らは、後白河法王を
動かし平打倒を誅るが、失敗する。
1179年: 法皇をおしめ、多数の貴族の官職を奪い、全国の半ば近い知行国を
手に入れる。
⇒かえって反対勢力の結果、源氏や武士団、僧兵が兵をあげる結果を
つくりだしてしまう。

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