Contemporary writings
高中
2枚目P22ページの例えば、から何言ってるのかわかりません。
現代文得意な方詳しく説明願います
がした
可能
いわ
*
いや生全体に
二〇一七年度
第
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発
によって解決しようとするというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。 科学技術によっ
て産み落とされた環境破壊が、 それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染
防止のためのワクチンに対してウィルスがタイセイを備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のよう
に耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことに
よって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開に
はたして終わりがあるのだろうかという気がした。 技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。 次のステージにな
にが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども科学技術の展
開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんで
あり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。
けんいん
医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工受精という技術を開発してきた。その一つ体
外授精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といっ
たことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。 多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経
済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この
制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、
また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。
いろう
いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外授精に比し
より身近に起こっている延命措置の問題。 たとえば胃瘻などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食
事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、か
なり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはず
の人間の生命をキュウサイし、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。
しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現
実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、
核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一般である。 テクネー (TEX(VM) である技術は、ドイツ語
Kunst の語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと (sollen)」とは区別されねばならない。
テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわ
ち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましい
かどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところ
それが単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。
では、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、
ほうてき
テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲され
た人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。
妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非
を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」
3限目
問題文
それに従っている人
はなち
生全体に不可避的に関わるもの
設問
18410
が二〇一三年四月に導入されて以来一年の間に、追加の羊水検査で異常が認められた妊婦の九七%が中絶を選んだという。
療養型医療施設における胃瘻や経管栄養が前提としている生命の可能な限りの延長は、否定しがたいものだし、それを入所条件
として掲げる施設があることも、私自身経験して知っている。 だが、飢えて死んでいく子供たちが世界に数えきれないほど存在し
ている現実を前にするならば、自ら食事をとることができなくなった老人の生命を、公的資金の投入まで行なって維持していくこ
とが、 社会的正義にかなうかどうか、少なくとも私自身は躊躇なく判断することができない。
ここで判断の是非を問題にしようというのでは、もちろんないし、選択的妊娠中絶の問題一つをとってみても、最終的な決定基
準があるなどとは思えない。むしろ肯定・否定を問わず、いかなる論理をもってきても、それを基礎づけるものが欠けていること、
そういう意味で実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだと、私は考えている。
レスポンシビリテ
せんめつ
たとえば現世代の化石燃料の消費を将来世代への責任によって制限しようとする論理は、物語としては理解できるが、現在
存在しないものに対する責任など、応答の相手がいないという点で、想像力の産物でしかないといわざるをえない。同じ想像力を
別方向に向ければ、そもそも人類の存続などといったことが、この生物種に宿る尊大な欲望でしかなく、人類が、他の生物種から
天然痘や梅毒のように根絶を祈願されたとしても、かかる人類殲滅の野望は、人間がこれら己れの敵に対してもっている憎悪と、
本質的には寸分の違いもないといいうるだろう。 その他倫理的基準なるものを支えているとされる概念、たとえば「個人の意思」
や「社会的コンセンサス」などが、その美名にもかかわらず、虚構性をもっていることは、少しく考えてみれば明らかである。 主
体となる「個人」など、確固としたものであるはずがなく、その判断が、時と場合によって、いかに動揺し変化するかは、誰しも
が経験することであり、そもそも「個人の意思」を書面で残して「意思表明」 とするということ自体、かかる「意思」なるものの可変
性をまざまざと表わしている。また「コンセンサス」づくりの「公聴会」なるものが権力関係の追認でしかないことは、私たち自身、
いやというほど繰り返し経験していることではなかろうか。
だが、行為を導くものの虚構性の指摘が、それに従っている人間の愚かさの摘発に留まるならば、それはほとんど意味もないこ
とだろう。虚構とは、むしろ人間の行為、いや生全体に不可避的に関わるものである。人間は、虚構とともに生きる、あるいは虚
構を紡ぎ出すことによって己れを支えているといってもよい。問題は、テクノロジーの発展において、虚構のあり方が大きく変
わったところにある。テクノロジーは、それまでできなかったことを可能にすることによって、 人間が従来それに即して自らを律
してきた虚構、しかもその虚構性が気づかれなかった虚構、すなわち神話を無効にさせ、もしくは変質をヨギなくさせた。それは、
不可能であるがゆえにまったく判断の必要がなかった事態、「自然」に任すことができた状況を人為の範囲に落とし込み、これに呼
応する新たな虚構の産出を強いるようになったのである。そういう意味でテクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のとこ
ろから変えてしまう。
〔注〕 排卵誘発剤 卵巣からの排卵を促進する薬。
○多胎妊娠――二人以上の子供を同時に妊娠すること。
○胃瘻腹壁を切開して胃内に管を通し、食物や水、薬などを流入させる処置。
(伊藤徹 『芸術家たちの精神史』 一部省略)
(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
「科学技術の展開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある」
「単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
「実践的判断が虚構的なものでしかないことは明らかだ」(傍線部ウ) とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
四 「テクノロジーは、人間的生のあり方を、その根本のところから変えてしまう」(傍線部エ)とはどういうことか、本文全
体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ (句読点も一字と数える)。
傍線部a.b.cのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a
タイセイ
b キュウサイ C
ヨギ
2
解答
尚無回答
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