Contemporary writings
高中
已解決

問9の解説お願いします🙏💦

20 ねばならない。 また、こ (解答番号は、第二間で【古文】 を選択した場合は1~現代文を選択した場合は1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、1~問1)に答えよ。 少女が涙に濡れた。差し出し、言う。「ピッ」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに ちない。少年が朝鮮を知らなければ何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる ことになる。 www. ロサンゼルスでも、アルフ・アタでもどこでもよい。 英語とスペイン語でも、北京語 広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの運転士との会話でもよい。複数の言語が出会う言語場複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの場で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはりBに過 この意味な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ やかなものであることがわかるであろう。意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 「ことば常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と それ自体として大きくってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。 ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に固定し難いもの だという意味の実現の原理的なありようをここでは問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは 意味なものであることの結果についての書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」 や 「曖昧性」もま たにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 ことばにする方式、意識的に表現を明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この度にある。 ことばは意味を持つ」と考えた。このことは言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の甘酒場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レクがありま は、いくらでもある。そうした意味の「持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、生理の所行と言わ れがされたことば)であれ書かれたことばであれ、外形を有している。形が在る。形を有すること ばか何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代である。 ことばがじないのは、青森方言や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という テーゼとして出発している。そうした前提に立って、 伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったこと、じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 があると考えてきた。書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを「正しく」「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで める てきたのである。 あらかじ 拡大され、「異文化」というコードを知ること、「異文化理解」などといった考え方が喧伝されてきた。これら多くの考え方の中 で、大前提となる、同一言語コードの上で、即ち正しいコードの共有の上で、ことばの十全たる受け渡し、即ちことばの正しい キャッチボールさえ実現できれば、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテーゼ自体は揺るぎないものとして、保持され続け かも戻すた形がと ことばを「意味を持つ/持たない」という二項対立の中に措定しようとする限り、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテー ゼは動きようがない。ことばが意味を「持っている」なら、何かしらの外的な阻害条件が加わらない限り、 ことばは投げ与えら れたので、その意味は話し手から聞き手に「伝達」されることになってしまうからである。 言語学的な立場から情報通信理論の図式を提出している典型として、R・ヤコブソン『言語とメタ言語」を挙げることができ る。 「送り手」が「受け手」に対して「メッセージ」を送る。この「メッセージ」ということばも、なかなかに危ないことばで ある。同書では「場面」が強調されている。 送り手と受け手に完全に、もしくは部分的に共通した「コード」と、送り手と受け 手の物理的経路と心理的なつながりである「接触」が欠かせないとして、ヤコブソンはこうした六つの因子を挙げる。場面を強 調している点は首できるものの、送り手が受け手にメッセージをあるコードに従って送るといった考え方は、いかにも機械的、 図式的で、素朴な発想である。こうした機械的 図式的という非現実性は、ヤコブソンの論の隅々に通底する二項対立論がもた らすものである。もっと言えば、ソシュール以来の言語学、記号学、 構造主義が、共通して胚していた二項対立論の、謂わば 負の表れである。負の表れと言ったのは、二項対立論は、二〇世紀思想とまではゆかずとも、少なくとも二〇世紀言語学にあっ ては、長足の発展を基礎づけた、決定的な方法論の一つだったからであり、負の結果と同時に巨大な正の成果も招来してきたか らである。 ジュリア・クリステヴァのような言説の中にも、送り手が「受け手=解読者」にメッセージを送るという、こうした図式が入 り込んでいる。 「伝達される意味」などということばに頼れているように、送られる「タッセージ」はそこでは事実上、意味を 持っていると考えられている。 クリステヴァが「受け手=解読者は、聞こえることを言える範囲でのみ解読する」と言うとき、 「送り手」における意味と、「受け手」における意味という、少なくとも二種の意味があり得ることを掘り下げる、一歩手前まで 来ているのにも拘わらず、どうしても意味を持った「メッセージ」を伝達するという観念から、抜け出ることができないでいる。 「送り手」がある意味をメッセージとして込める、その「メッセージ」を受け手が自ら「言える範囲でのみ」 解読するというク リステヴァの図式においては、やはり「ことばは意味を持っている」 という前提が揺るがない。J・J・カッツ「言語と哲学」 にも似たような考えが見える。 実のところ、送られるのは、一定の意味を持った イッセージなどではなく、一度は音声とい う形で意味から自由になったことばなのである。 ヤコブソンなどのこうしたコード論に立って、意味が実現しないと言っても、それは異なったコード間での出来事ではないか、 エンコード (encode) したのと同じ code でデコード (decode) していないのだから、と反論するのは、見苦しい言い訳に過ぎ ない。その言語観は、まるで数理的な体系でもあるかのような、コードなるものを幻想する以前に、コードなど成立しない言語 場を予めはっきりと理論的に位置づけ得ていただろうか? あるいは一瞬でも考えただろうか? 繰り返すが、 ことばが意 味となったりならなかったりする、あるいはかろうじて意味となる、それは私たちにとって日常であり、世界にとって自然で ある。言語にとっては存在のありかたそのものなのである。そうした事態がその言語観の中に鮮明に位置をシめていないのであ れば、言語の実現のリアリティの大きな前提が、その言語観においては予め切り捨てられている、ないしは隠蔽されていること になる。「ことばが通じる」という事態よりも「通じたり通じなかったりする」ことが先に、あるいは、より深いところにある がゆえに、その深いところにある前提を除外した時点で、その言語観は少なくとももう今日の理論としては失格である。 言語学 としてもヒソウであり、言語教育にあっては、余計に罪深い。ことばが通じない悲しみを背負わぬ言語教育など、信じられるだ ろうか? 百歩譲って、コード論者の言い分を一旦、受け入れてみてもよい。そうしたコード論を理論的に成立させるためには、少なく とも次の二つの本質的な部分を解決せねばならない。 第一に、異なった言語の間だけではなく、実はいわゆる同じ言語の話し手の間でも、つまり同じコードの間でも、ことばが意 24一般入試A問題
味となったり、ならなかったりするという問題である。ことばが意味とならないことなど、同じコード間でも、日常茶飯事であ るから。いろいろな言語でこんな表現が存在しているということ自体が、そのことをよく物語っている。え? どういう意 味? 同じコード間であっても、同じ言語の間でも、やはり意味は実現したりしなかったり、曖昧な実現を見たりしているわけであ る。そこではいわゆる誤解も起きる。 そして重要なことは、実現を見た意味は、〈理解〉と〈誤解〉に二分されるのではな 俺はそういう意味で言ったんじゃないよ。 <誤解〉も原理的に、〈理解〉の一形態だという点である。 第二に、どこからどこまでが同じコードなのかという問題も本質的な問題である。「同一のコード」と「異なったコード」と いう二項対立の図式は、自然言語にあってどこまで有効なのか? 同じ大阪方言、母と子は? 社会カイソウによる言語の違い は? 性別、年齢、職業、教育、経験……………それが同じコードと言えるのかという問題は、コードの周辺がぼんやりしたものであ る事実を浮かび上がらせる。この点では安易に「言語共同体」などを持ち出す言説にも、注意深い視線が必要である。コードな どと呼ばれてきた、根底のプロトコル=規約でさえ、その周辺は朧なのである。面白いことに、「コード」の周辺が朧であるこ と、そのことは逆に、意味の曖昧な実現を積極的に支える根拠ともなる。 おぼろ (野間秀樹『言語存在論』による) 注 (1) アルマ・アタ カザフスタンの都市アルマトイの旧称。 (2)ソシュール 一八五七~一九一三年。 スイスの言語学者、記号学者。ソシュールは言語を、「シニフィアン」(表 5 現)と「シニフィエ」(意味内容)との結びつきにおいて捉えようとした。 (3)コード―ここでは「約束事」という意味。 (1) テーゼ - 「These」 (ドイツ語) で 「定立」のこと。何事かについての肯定的な主張、命題。 (5)語用論 言葉や記号とそれを使用・解釈する者との間の関係を理論的・形式的に考察するもの。 (6) R・ヤコブソン 一八九六~一九八二年。ロシア出身のアメリカの言語学者。 (7) ジュリア・クリステヴァのような言説―― ジュリア・クリステヴァ(一九四一年〜) は、フランスの文学理論家。 ここではその著書『ことば、この未知なるもの』の内容を指している。 (8) J・J・カッツ 一九三二~二〇〇二年。アメリカの哲学者、言語学者。 (9)エンコード情報を暗号化・記号化すること。 (10) デコード暗号化・記号化された情報を元に戻すこと。 傍線部a~eを漢字で書いたときに、その漢字と同じ漢字を含むものを、次の各群の①~⑤のうちからそれぞれ一つずつ 問1 選べ。解答番号は1~5 a アオぐ 相手を恐れずギョウシし続ける。 川が平地へ流れ出る所にセンジョウ地ができる。 ③予想外の結果にびっくりギョウテンする。 父が医者から病名をセンコクされる。 (2024AG-A-6) (2024AG-A-5) 問2 傍線 5 番号は (--) e 3 シ シめて 24
⑥ 生徒C 生徒D 24一般入試A問題 問9 次に示すのは線部G「安易に『言語共同体』などを持ち出す言説」における「言語共同体」について、五人の生徒が 意見を述べ合っている場面である。このうち、問題文の趣旨に合致しないものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番 ①生徒A 同じ言語、同じコードを使用する人たちのことを「言語共同体」と言うのだろうけれど、日本語で話し 合っているはずなのに、相手に上手く言いたいことが伝わらないことがあるよね。そう考えると、「共同体」といっても、 その共同体の認定は難しいよね。 生徒B そうだね、「言語共同体」の中身は均質だとは言えないね。それはきっと、みんなが無意識的にことばを 話しているからだと思う。 相手が理解しているかどうかお構いなしに、みんな言いたいことだけを言っている感じなんだ。 改めて、あるべき「言語共同体」を作り直さなきゃいけないよ。 コードを共有しているはずの「共同体」が均質ではないということで言えば、例えば同じ高校生同士で あっても、同じ地域の人たち同士であっても、通じ合わないことはある。同じコードだから通じ合うというのは、思い込 みだよね。「言語共同体」という言葉があると、思い込みに気付けなくなるかも。 - おそらくきっと、「コードが共有されている」「コードが共有されていない」というのは、単純に区別でき るものではないんだろうね。同じ言語を使用している私たちの間でも、分かっているような分かっていないような、正し く理解しているような理解していないようなやりとりだってあるんだし。 ⑤生徒E 言語とかコードを共有しているという感覚は、ことばが通じ合った結果として持てるものであって、共有 しているから通じ合うというものではないんだろうね。自分が「言語共同体」の内側にいるという思いから逃れられれば、 相手に上手く伝わらないことに対しても別の見方ができるかもしれない。 問10 波線部 「言語場」について、筆者は問題文とは別のところで【資料】のように述べている。問題文と【資料】の二つの内 容を踏まえ、筆者の考えを説明したものとして最も適切なものを、後の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は 5 ° G-A-14) (2024AG-A-13) -13-

解答

✨ 最佳解答 ✨

問9 言語共同体とは文脈から判断して言語を共有している集団のことですよね。筆者は同じ言語を共有している(同じコード内)でも意味が通じると限らない(方言や職業、年齢などによって)と言っていますよね。つまり言語共同体の存在そのものを疑問視していると言えるのではないでしょうか。
2は言語共同体を作り直す(おそらく文章で述べられていた、言葉を正す。例えば標準語で喋らせるとか)と言っていますが、筆者は言語共同体そのものを疑問視しているので、これはズレているのではないでしょうか。

みー

言われてみれば、言語共同体の存在を疑問詞しているようにとれました。
現代文で自分でよんだるだけでは解釈できないことがしばしばあるのですが、力をつける方法や読む時のポイントはありますか?

2の言語共同体の前の’あるべき’って合致しない要素の1つですかね?

いつも回答ありがとうございます🙏🏻´-

ある人

要約してみたらどうでしょうか。本当に必要なところがわかると思います。

キーワードに注目して読めというのは間違っていると思います。(僕はこれのせいで国語ができませんでした) 二項対立的に読むのはどうですか?今回だと言葉はコードであるか、曖昧なものか(これが筆者の意見) というように。
2項対立的に読むと新しい言葉ができたとき、これらのうちどちら側に入るのかを考えると読みやすくなると思います。

みー

なるほど、
要約や二項対立二より構造化されて整理できそうですね。
試してみます!ありがとうございます🙏🏻´-

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