✨ 最佳解答 ✨
布教目的というよりは、通商関係を築くことが目的です。
はじめ1792年にラクスマンが根室(北海道)にやってきます。そこで、通商を要求してきます。それに対して幕府は
「ちょい厳しいかなぁ。とりま、次来る時は長崎にでも行ってくれ」と対応します。
その後、1804年レザノフが長崎にやってきます。目的は同じです。しかし、これに対して幕府は、
「通商関係なん築くわけねーだろボケ」
って感じで酷い対応をします。
レザノフはブチ切れです。「あんたらが長崎行けっていったんだろ!」って感じにです。
日本もこれには少しビビってしまいます。
ロシアの目的として、日本で燃料の補給もありました。そのため、日本は1806年に文化の薪水給与令をだします。
薪水給与令とは、外国船が日本で燃料や水、食料を補給することを認めるものです。つまり、武力衝突を避けるために、発布したことになります。
流れはこんな感じです。🙏
分からないところがあれば言ってください🙏
もう一つ質問なのですが、、なぜ断ったのでしょう⁇通商関係が不利になりそうだからですか⁇
それもあるかと思います🙆♂️
とはいえ、当時は鎖国中ですので、その体制の維持が一番大きな理由になると思います。
補足として、
鎖国のメリットとしては、キリスト教が流入してこないことや外国からの侵略を防げることにあります。
めちゃめちゃわかりやすかったです‼︎ありがとうございます🙏助かりました😭