✨ 最佳解答 ✨
江戸時代の年貢は米納です。飢饉で農民が困窮すればその分、畑耕す人材が少なくなることは容易に想像できます。そうなれば年貢量も自ずと減ります。
そもそも江戸時代の享保の改革期には年貢の量が大幅に変更されます。それまではその年毎に取れた米の量でそれぞれ年貢量が決まっていました。
例えば10の量の米が取れた年は4を年貢として納めて、豊作で20取れたら8を年貢として納めるという取れた量に応じて年貢も決める方針でしたが、不作の年が続くと幕府財政は悪化をしていくことになります。なので幕府は方針転換をし、例えば10取れようが、不作で5しか取れまいが問答無用で5取るようにします。豊作の時は今まで以上に農民の手元に米が残りますが、不作の時は農民生活をひどく圧迫することになります。
こうして徐々に農村全体が大きく疲弊していくことになります。農業みたいな汗水垂らして働いても幕府共に根こそぎ持ってかれる事なんてやってられねえ!と博打に走るものや、土地から逃げ出す者、一揆や打ちこわしに参加する者、生活があまりに苦しく江戸に行けば何か仕事はあるだろうと計画もなしに江戸を目指して放浪する者…
こうした連中が増えれば増えるほど農民が減少してると同義ですから年貢収入は減ります。更にここに享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉とこれらの動きを加速させる大飢饉が発生します。
だから寛政の改革では旧里帰農令、天保の改革では人返しの法が出るんです。なんとか江戸に入ってきた連中を農村に戻して、農業をしてもらって年貢収入を増やしてほしいからです。
長くなりましたがこれの答えは
「幕府財政の根幹である年貢は農村からのものである為、飢饉などで疲弊した農村を復興させる事は幕府財政復活につながる為。」
なんてどうでしょうか。因みに幕府収入の75%は天領(幕領)からの年貢だったそうですから、どれだけ農村復興が重要であったかはお分かりいただけるかと思います。
めちゃくちゃわかりやすい説明ありがとうございます.ᐟ.ᐟ
これで社会の分からないところは無くなりました!