解答

✨ 最佳解答 ✨

ヨーロッパ←イスラム(中東)←インド・アジア
を海で繋ぐ航海ルート(海の道)の拠点の都市が栄える

16C イスラム世界を通さず、直接インド・アジアと交易するために、ヨーロッパ諸国が海の道へ参入。ポルトガルやスペインは都市を占領

17C ポルトガルやスペインの力が衰え、オランダが参入。東南アジアを支配(面の支配が進む)

左画像、ポルトガルの点と線の支配
右画像、オランダの面の支配(インドシネマあたり)

たにた

説明が足りないところがありましたら、いってください!

chimer☺︎︎

遅くなりすみません💦ありがとうございます🙇‍♂️🙇‍♂️

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解答

補足します。
授業で触れられていないような固有名詞は適宜無視してください。

ヴァスコ・ダ・ガマによる1598年のインド航路開拓までは、マムルーク朝などのイスラーム勢力が香辛料貿易を独占していました。

16世紀初頭、海軍力を軽視するマムルーク朝に対し、重火器をそろえたポルトガル海軍は、1509年インド西部のディーウ沖の海戦で、ヴェネツィア共和国の支援を受けたマムルーク朝に大勝し、香辛料貿易を独占するようになります。
(香辛料貿易による利益独占を失ったマムルーク朝は、直後にオスマン帝国に滅ぼされ、ヨーロッパでもヴェネツィア共和国の利益が大幅に減少し、商業革命をもたらすことになります)

香辛料貿易により巨大な利権を手にしたポルトガルですが、1580年王家断絶の際にスペイン王フェリペ2世にリスボンを占領され、以後60年間スペイン王がポルトガル王を兼ねることになります。

その時期、モルッカ諸島など、東南アジアの旧ポルトガル植民地を狙っていったのがオランダです。
なお、ポルトガル(スペイン)を排除したオランダは、1623年アンボイナ事件でイギリスも排除することになります。

前段の質問に関連しますが、
この時期は、ポルトガル・スペイン・オランダとも、貿易中心で拠点となる港湾都市を結ぶ点と線の支配になります。
オランダが面の支配を展開していくのは、ウィーン会議における独立回復後に、ファン・デン・ボスによってオランダ領東インド(のちのインドネシア)に導入された強制栽培制度以降と言えるでしょう。

※ ノートですが、モッカ諸島は「モルッカ諸島」が正しいですよ。

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