中世の武家社会に関する記述として最も妥当なのはどれか。
1 12世紀には,源頼朝が鎌倉を根拠地と定め,東国の支配を進めた。頼朝は鎌倉に侍所,公文所(政所),問注所などを設置し,さらには朝廷から地方に守護と地頭を置く権限も認められ,武家政権としての鎌倉幕府を確立させたが,その当時,依然として京都には公家政権が存在し,律令体制による伝統的な行政権を保持していた。
2 源頼朝の死後,征夷大将軍に任命された北条時政が鎌倉幕府の実権を握り,新たに京都に西面の武士を置いて朝廷の監視を強化したことから,幕府と朝廷との対立が深まり,承久の乱が起こった。その結果,幕府側が圧倒的な勝利をおさめ,それまで幕府の力が弱かった畿内や西国にもその支配権が浸透することになった。
3 承久の乱後,急増した荘園領主と地頭との紛争などを公平に裁判するため,武家法として最初の体系的法典である武家諸法度が制定された。これは,武家社会の道理・習慣や源頼朝以来の幕府の先例を基準として,御家人の権利・義務や裁判の原則を定めたものであり,朝廷や荘園領主の裁判をも規制するものであった。
4 鎌倉幕府の滅亡後,後醍醐天皇は京都で公武を統一して新しい政治を始めた。天皇は足利高氏(尊氏)を征夷大将軍に任命して室町幕府を開かせたが,北条早雲が反旗をひるがえして京都に光明天皇を立てたことから,南北朝の動乱が始まった。この動乱の中で将軍権力は急激に弱体化し,幕府の実権は有力な守護大名へと移っていった。
5 16世紀には,戦国の争乱の中で守護大名が没落し,新たに新田義貞や楠木正成などの戦国大名が台頭してきた。戦国大名は一族や国人・地侍に知行地を与えて家臣とし,大名と家臣とは土地の給与を通じて御恩と奉公の関係によって結ばれるようになった。こうして,それまで武士の間で私的に結ばれてきた主従関係が,公的な関係へと変わっていった。
正解と間違っているものはなぜ間違っているのか教えていただきたいです。