Contemporary writings
มัธยมปลาย
Q本文中のアラベスクの意味とは?
①神秘的な雰囲気をたたえた装飾
②幾何学的に組み合わせられた模様
③視覚的効果を計算した多彩な色彩
④意味をはぎ取られたむき出しのもの
⑤脈絡のない細部を縫い合わせた布地
という選択肢で②と⑤で迷って⑤を選択してしまったのですが、答えは②でした。
これは何故ですか?布地という部分がダメなんですかね?😂
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スージ
LのE伝統においてはほとんどの場合、身体は「物体」(bodylcorps)の一つとして、「心」や「精神」 (mind/esprit)と
]わたしの身体は、わたしが見、触れることのできる物的対象の一つである。それは物体としての密」
悩されてきた。[a
LAt積とをもち、叩けば音もする。それは疑いえないことで、【 b 】西洋の科学の歴史のなかでは長らく、身体はもっぱ
後室)のモデルに沿って医学や生理学の対象として分析されてきた。【 c ]、あらためて考えると、人の身体は物体とし
しは知覚情報があまりにも乏しい。具体的にいうと、たとえば見える部分は全体の半分にも満たない。後頭部や背中はどうあが
しても絶対じかには見ることができない。つまり、〈わたし〉の身体はわたしにはトータルには不可視なものであり、〈像〉と
インヴィジプル
してしか体験できないのである。わたしの身体はそれなしに〈わたし〉のありえないもの、というか〈わたし》自身でもあるの
それ全体から当のわたしは遠く隔てられているという事態がここにはある。「各人は各自にもっとも遠い者である」とかつ
(にー)
てニーチェは書いていたが、この言葉は身体にこそよく当てはまる。
この点について、いますこしタンネンに見ておこう。
じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。たとえばホウチョウで切った傷の
Sはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたし
わたしの身体であるといいうるほどに、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考え
。おたしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のう
い、ましてや他人がこのわたしをわたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして難儀なこと
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んで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじがに見た
般入試前期1日目一
をいわば目隠ししたまま経験するほかないのであって、危ういばかりに無防備なのである。
それが何であるか正確に理解できないまま、身体のさまざまな情況に対応しなければならない。
身体はこのようにそれなしではわたしが〈わたし〉でありえない存在でありながら、それに〈わたし〉はつねに部分的三
しか関与できない。それは〈わたし〉が制御できるものではない。それゆえに身体は、〈わたし〉にとってなによりも不安の
である。そしてそれが意識の外から〈わたし〉を突き上げる(たとえば欲動、あるいは体調の不全や病気)。〈わたし)
を刺し(たとえば他人の冷やかな視線)、引っぱり(たとえば修行や競技)、そして〈わたし〉に貼りつく(たとえば倦怠や疲労)
このように〈わたし〉は身体という〈わたし〉自身であるものにたえず
(州N)。
|されている。
わたしたちの身体経験はさまざまの断片のアラベスクのようなものである。見るにしろ、触れるにしろ、内から突き上げられ
るにしろ、わたしたちはじぶんの身体にかんしてはつねに部分的な経験しか可能ではないので、そういうばらばらの身体知覚。
は、ある一つの想像的な身体イメージを繋ぎ目としてたがいに連結されることではじめて、あるまとまった身体として了解され
るといえる。わたしたちのからだは穴だらけ、隙間だらけであって、そのことが「わたしの身体」というこの幻影ともいうべき
象 〉を、じぶんという存在の 蝶 番のようなものとしてたぐりよせるわけだ。
そこから、そのつどの断片的な身体経験を一つの〈像》へと縫い上げるために、そしてそれによってじぶんの存在の同一悩を
催定するために、わたしたちの日常の行為の多くが割かれていることに気づかされる。化粧や装飾、身体変工、刺青、自傷た
ちょうつがい
co
いれずみ
であると考えるならば、衣服はも
であると考えるならば、衣服はもはやわたしたちの存在の被いではないことになる。それはむしろ、わたしたちの存在の継ぎー
ないしは蝶番とでもいうべきもの、いやもっと直載に、身体はまずは衣服であるといいうることになる。この〈像〉としての母
おお
体こそが〈わたし〉が身にまとう最初の衣服であるからこそ、わたしたち人間は、繊維を編みだすよりもはるか以前から、皮膚一
をまるで布地のように裂いたり、引っかいたり、あるいは皮膚に線を引いたり、顔料を塗ったり、異物を埋め込んだりしてきた
(agpoolybod) (
のだJ°nim)
るい
〈像〉としての身体の脆弱さのゆえに、あるいはこの〈わたし〉の存在と〈像〉としてのその身体とのあいだに発生する垂離
の
や銀酷のゆえに、ひとはそれを埋めようと、身体の表面にたえず介入してきたといえるとすれば、そこからふだんはとくに問う
こともない無数の問いが浮上してくる。たとえば、身分証明書用のじぶんのポートレート写真やテープに録音されたじぶんの話
し声など、じぶんのフィジカルな姿を突きつけられたときに、なぜ強い、しかも否定的な情動が覚醒されるのか?ひとはなぜ、
いつもじぶんのボディの形を気にするのか? なぜ身体に秘密の場所、あるいは目のやり場に困るような場所が存在するのか?
幼年の教育においてはなぜじぶんの身体にカジョウな関心を抱くことが危険視されるのか?,身体にはなぜその正しい使用法が一
I
定められているのか?わたしたちはなぜ「自然」のままの身体に充足できないのか?(人びとが武道や修行や養生で鍛えよう
としてきたのは身体のどのようなはたらきなのか? さらには病とは何か?、性とは何か? そもそも「からだ」と「体」と「身」
こどのような違いがあるのか? 追いだすと切りのないこれら無数の問題はどうもみな、「わたしの身体」というものが、わた
し自身にとってもっとも身近な未知の領域であるという事実から発生しているようなのだ。 0 e
eもういちどいうと、身体は、物体として知覚されるより先に幻想されるものである。身体が body でないというのは音識を覆
すかのようであるが、そういうふうに身体としてのわたしたちの存在を入像)として扱えなおすことで、わたしたちはいま述べ
とような思考の未知の光景ないしはフィールドへと移行してゆくことが可能になる。この亀裂を知ることは人を下安こするが、
|ようにもなる。そしてまぎれもなくこれは、西洋の哲学が
そのことで身体と顔をめぐるさまざまなことがいくばくか|
古代ギリシャ以来問いつづけていた身体(肉体)の問題、キリスト教的な霊と店の関発の旧題。 そして近代の哲学が組上こ設せ、
N
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