澶淵の盟は遼の大軍が南下してきたのに対しての講和で、
慶暦の和約は西夏の度重なる領土侵入に対応するためのものでした。
遼と西夏に貢物を送っていましたが、宋はあくまでも東アジアの頂点である中国皇帝です。そのため、他国と関係を結ぶ際は宋の立場が上になります。
遼は軍事大国であり、宋は君臣の関係を取るわけにはいかず、最大限の配慮として家人の礼をとりました。
一方、西夏は遼ほどの大国ではなく、中国と周辺諸国の伝統的な関係(君臣関係)をとりました。
※澶淵の盟は三代の真宗、慶暦の和約は四代の仁宗という皇帝が結んだもので、趙匡胤がやったことではありませんよー