Senior High
日本史B

第7講 室町幕府と中世の社会・経済

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みいこ

みいこ

高校3年生の時に日本史を選択し、受験用にまとめたノートです。予備校のまとめ、学校授業、教科書(山川)、図説等から作成しました。受験生の皆さんに役立てば嬉しいです。byみいこ

ノートテキスト

ページ1:

南北朝の対立
朝廷の分裂
天皇家は(後嵯峨天皇の皇位継承をめぐって、皇統が(持明院統)と
(大覚寺統)に分裂した。幕府は両統が交代で皇位につく(両総選苙)の
方式をとったが、朝廷側の不満は残る。
(在位10年
大覚寺統
後
(亀山)(後田)(後醍
(後亀山)
・後二条
護良親王
嵯
峨
持明院統
(花園)
(光明)
崇光
(後小松)
天皇 院政
大覚持続(南朝)
持明院統(北朝)
T
花園後宇多
後宇多法皇の院政
法皇
PA
大
③
1317(文保の和談) 交互に天皇になる
幕府による両統送の確認
幕府による調停
後醍醐
大
13181 後醍醐天皇の即立
(宋学)の大義名
分論を信奉
幕府が皇位継承
に介入することに
不満もってた
←1321 天皇親政を進める
天皇の権限強化
1321(記録所)を再興
延喜天暦の治を理想時代と考えた
天皇親政を行うための役所
「倒幕計画 「院政の停止
得宗専制政治に対する反発
(北条高時)のものとで、(長崎高)に
実権にぎられていた。後醍醐天皇と←
(日野資朝)による倒幕計画は事前
佐渡へ
にもれて流罪。
1331 (元弘の変)
幕府に対しては、
(得宗専制)に対する反発高まる!!
①得宗:14代(高崎)
②内管領:(長崎高資)
↓
後醍醐天皇、天皇親政やるチャンス!!
元弘
「1年)
後醍醐天皇は皇子(護良親王)ら
と再び倒幕をはかったが、計画がもれ
たため(隠岐)に流された。
(笠置山で捕えられた)
←

ページ2:

光厳
13311
明
後醍醐
くすのきまさしげ
・楠木正成)(河内の悪党)が
1 荘園領主に対して反抗
(1332 (親)が吉野で挙兵
の
1333 後醍醐天皇が(名和長年)により、
隠岐を脱出、伯耆国船上山に
おかえられた.
11333 (足利尊氏)が六波羅探題を、
元弘)(新田義貞)は鎌倉に攻めこみ、
1 北条高時を滅ぼす
3年
1333 建武の新政 (天皇親政)
↓批判 公家と武家が対立
113341 「二条河原落書」
→建武の新政を風刺
(建武年間記)に収録
などがわ
1336(湊川の戦い) 後醍明の有力武将
足利尊氏 vs 楠木正成
立校の肝
13311 光厳天皇の即位
鎌倉幕府滅亡
1335(中先代の乱)
'
北条高時の子(北条時行)は、
鎌倉幕府再興とはかって(信濃)
1で挙兵、しかし(足利尊氏)に敗
れる。
*足利直義は護良親王を殺害
' 中先代の乱に乗して、足利尊氏らは武家
政権を否定する後醍醐天皇に反旗を
翻す
↓
戦死
1336 後醍醐天皇(吉野)へ
1336
(光明天皇を擁立
手
京都の北朝(持明院統) 60年にわたる1336
尊氏(建武式目)を定める。
足利尊氏・光明天皇
南北朝の戦
VS
吉野の南朝(大覚持続)
あさいえ
後醍後天皇・北畠顕家
北畠親房が「神皇正統記」
1339 後醍醐天皇の死
→(後村上天皇)が即位
1348 楠木正行の戦死
→吉野陥落

ページ3:

室町幕府
将軍
政治、一揆
○尊氏
1336) (建武式目)
戦乱
→(守護領国制)
近江・美濃・尾張に限定
尊氏(いくさ上手、軍事担当)
直義(鎌倉将軍のサポート役
政治担当)
室町幕府の政治方針
全17条から成り、(二階堂 )
らがつくった。のちの法令は(建武以
来追加)という。
1338征夷大将軍になる
観応
1352 (半済金)
→荘園公領の年貢の半分を徴
[発する権限(兵糧米)として、
守護が支配者に
[二頭政治]
1338 藤島の戦い
→新田義貞の戦死
1339 後醍醐天皇の死
→後村上天皇へ
1343 関城・大宝城の陥落
→南朝が北朝にやぶれる
なわて
1348 四条畷の戦い
→楠木正行の戦死
尊氏の弟
1350 (観応の乱)
尊氏の執事
(高師直)vs(足利直義)
尊氏が直義を毒殺
1/352
ル
くずれてくる・・・PD
13581尊氏死去 (義詮)2代将軍に
義満
玉ゆき
りょうしゅん
管領:(細川頼之)
1368 (応安半済金)を出す
1
1371(今川俊)による九州平定
南朝の力が一番強かった
幕府の力が強くなる品
↓
1378 (花の御所)の造営
室町殿とよばれる邸宅を造営。
ここで政治おこなう
有力守護大名の制圧
室町幕府とよばれ始める。
11390 岐銀行の乱し
1392(南北朝の合一)
義満の要請により、南朝の(後)
天皇が、北朝の(後小松天皇に
譲位する形で合。
11391(明徳の乱)
'
→(山名氏清)を滅ぼし、山氏の
勢力をおさえた。
氏の
西国11ヵ国の守護
(六分の一衆)とよばれた
退位 ←1394 義満(太政大臣)に、

ページ4:

③義持 14041(日明)貿易の開始義満が
(義満の子)
1408 義満の死去
始める)
| 室町幕府動揺のきっかけ
1411 日明貿易の中断
「やったのは義満
将軍は義持
13991 (応永の乱)
→義満は周防・長門など6ヵ国
の守護をかねていた(大内義弘)
を堺で討伐
1416(上杉禅秀の乱)
・しひろ
ちょっとが
(足利持氏) VS 上杉氏憲
1
(鎌倉公方) (関東管領)
義教 1428 義持の死去
(天台座主)から還俗
専制的な政治を行う
1428 (正長の徳政一揆)
→近江(坂本)の(借)が蜂起
徳政を求めて京都の土倉・酒屋を
おそった。各地で実力による(私徳政)
がおこった。(畠山満家)により成敗
された。
「大乗院日記目録」(尋)に
記されている
11438
1
えいきょう
(永享の乱)
→鎌倉公方足利持氏)は将軍
になれなかったことを不満に思い.
反乱おこすが(義教)に征討
される。鎌倉府の実権は(上杉
実)(関東管領)に移った。
1440 結城合戦
(結城氏朝)が(春王丸)(安王
丸)を擁して挙兵、鎮圧された
1441(嘉吉の変)
みつす
→播磨の守護(赤松満祐)が義
教を暗殺、赤松氏は(山名豊)
らに討たれた
もちとよ
はりま
1429 (播磨の土一揆)
→(赤松満祐)を追い出そうとして
蜂起をするが鎮圧された。
義勝 1441 (嘉吉の徳政一揆)
→京都を中心に「代始の徳政」を求め、
徳政令を獲得
義政
義尚 1485 (山城の国一揆)
ひさ
→畠山氏の軍を国外に追放
山城の住民の支持を得て、(宇治平等院)
(国)を制定して三十六人衆による
8年間一揆の自治的支配を実現
1488 (加賀の一向一揆)
→本願寺の蓮如(東寿)の布教による。
守護(富樫政親)を滅ぼし、以降
100年間、国民らが加賀を自治支配
144(享徳の乱)
1
'
→鎌倉公方足利成氏)が関東
管領上杉憲忠)を暗殺
鎌倉公方の分裂 しょうじ
古河公方:(足利成氏) (氏の子)
堀越公方足利政知)(義政の弟)
のちに関東管領も(扇谷上杉と(山内)
上杉に分裂
1467(応仁の乱) 応仁・文明の乱
くわしくはのちほど

ページ5:

中世の社会・経済
鎌倉幕府
農業 ①二毛作(畿内、西日本)
→麦を裏作とする
②大唐米(多収穫米)
③ 肥料 刈敷:草を刈って田に敷き込む
草木灰:草木を焼いて灰にした
もの
室町幕府
→①二毛作(全国に)
三毛作(畿内)
→米・麦・そば
②早稲中稲晩稲
→それぞれの地域の気候に合わ
せたお米
しもごえ
→③下肥もうまれる
商業
交通
貨幣
①定期市(月一回)
→荘園公領の中心地などで
さんざいいち
②三斎市(月三回)
③見世棚(常設)
京都、奈良、鎌倉で行う
①簡(中継、運送)
②宋銭(貨幣)
*専門市場の発生
米場(京都) 魚市(淀)
→①六斎市(月6回)
→②一般化(応仁の乱以降)
①簡屋(仲買)
馬車借、廻船(運送)
金融:借上(高利貸業者)
→②元銭、明銭(標:永楽通宝)
→③土倉酒屋、寺院
倉酒屋 祠堂銭の貸付
(税金)(税金)

ページ6:

室町時代の外交
①体冠
→元冠以後、中国、朝鮮の沿岸を武装商船団が襲い、略
奪を行った。元や高麗の国力を弱め、滅亡を早める一因
となった。
前期冠
・・・・元冠~南北朝時代
おもに日本人
義満の冠鎮圧、勘合貿易で衰退
後期冠
・・・・戦国時代
おもに中国人
明の海禁政策、秀吉の海賊取締令で衰退
*根拠地⇒対馬、壱岐、肥前松浦
②元との通交
① 1325年(建長手船)の派遣 from 鎌倉幕府
建長寺の修造費用の調達が目的
②1342年(天竜寺船)の派遣 from 室町幕府
天竜手の造営費用の調達が目的
琉球との関係
足利尊氏により(夢窓疎石)のすすめで建立された
後醍醐天皇の冥福を祈るために建立された。
①11世紀末(按司)とよばれる領主が(城)を建てる
②14世紀中三山(中山)(北山)(南山)にわかれる
③ 1429年
中山王(尚志)が三山を統一し、(琉球王国)を建国
首都は(首里)
⇒東アジアの(中継貿易)で活やく、那覇を中心としていた。
別の国から買ってきたものを別の国に売る。
④ 蝦夷地
とこみなと
14世紀には日本海ルートによる交易さかん(津軽の十三湊など)
和人の進出によって海岸に館(道南十二館)を中心とした居住地とつくり、
(安藤氏)の支配下に属した。
1457年(コシャマインの戦い)
→和人の圧迫に対し、アイヌのコシャマインが蜂起するが、
(崎)氏によって鎮圧された
江戸時代では松前氏

ページ7:

⑤明と朝鮮との貿易
SAROGHATAR
将軍 中国(元
明)
朝鮮(高麗⇒朝鮮)
義満 1 (元)の滅亡
前期冠
(高麗)の滅亡
おさえられなかった
1368 (明)の建国
げんしょう。
→建国者:(朱元璋)
1 (海禁政策)(私的な貿易ダメ)を推進
義持 1401 国交樹立 by 義満
建国者:(李成桂)
(日朝)貿易の開始
→僧(商)と博多商人(肥蕾)
を派遣して国交を要求
1402明からの返書
(対馬)の宗氏が統制
(通信)を用いた貿易
<貿易港>
「日本国王源道義」と大統暦をもらう
↓ 義満の法号 明の暦
(三浦)交易がおこなわれた
→(富山浦) (釜山)
13921 (朝鮮)の建国がいい
(南北朝
合
勘合の持参を義務づけられた
明日字勘合
1 「日本国王臣源」と送って臣下の礼をとる
1404 (勘合貿易の開始
→(浦) (浦)
(塩浦) (蔚山)
(倭館)…日本の使節の接待
日本:本字勘合
無関税
*(朝)形式
⇒明親分子分
T
✓ あいさつしにいく
宗氏の親分(宗茂)の死
→宗貞盛になる
1408 義満の死
1411
貿易の中断
佐
活発に
→朝形式に不満
義教 1432 貿易の再開
戦国
時代
↓
大名に貿易
の実権うつる
(細川)氏
with堺商人
(大内)氏
with 博多商人
→利益を優先
1523 (寧波の乱)
→大内氏と細川氏の衝突
・大門氏と
↓
大内氏が貿易を独占
1551 大内氏の滅亡
1419 (応永の外定)
→朝鮮軍が冠の本拠
地(対馬)を襲撃
↓
貿易中断
1443 (発表約条)
7代義勝のとき 貿易の再開
「さんぽ
1510(三浦の乱)
→朝鮮が三浦に住む日本人の貿
易を縮小したため、日本人が
暴動をおこす。
(恒居体)
勘合貿易が断絶
1512) (約
VL こうきょわ
日朝貿易の衰退
)
後期冠
1588 (海賊取締令)

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