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5.新たな対外関係の樹立と内乱の終結 <岩倉使節団の欧米派遣> 政府→近隣の諸国とも新たな関係を結ぼうとする。 1871~73 岩倉使節団の派遣 国の代表者として 条約に調印する 権限を持つ証 岩倉具視らを全権大使)とする。 △アメリカで不平等条約の改正を相談したが、 「全権委任状」が無いということで話し合って もらえなかった。 日本代表は近代的な国際外交のルールを誰も理解 していなかったことに気づき、近代化のきっかけ となる。 その頃、日本では... 岩倉使節団が派遣によって日本から離れているので、日本の 政治が進められなくなるので、政府が留守にしている間 国を守るために組織された留守政府によって政治を行った。 留守政府は三条実美・板垣退助・西郷隆盛・大隈重信で 構成されていた。
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<近隣諸国との新たな関係> 1871 中国と日清修好条規を結び対等な関係になる。 朝鮮に交渉しようとしたが朝鮮側が拒む。 留守政府側が征韓論を主張する。 (西郷隆盛・板垣退助) 征韓論って? なんで巻き上がった? 征韓論は簡単に言うと、朝鮮に武力を使ってでも開国させよう とすること。当時の日本では土族の中には近隣国に出兵して みずからの必要性を証明しようと考えるものが少なかったから 征韓論が巻き上がった。 1873 明治六年の政変が起きる。 b征韓論に対して岩倉使節団側が内治優先論を唱えた。 (大久保利通・木戸孝) 内治優先論は簡単に言うと、海外の事よりも国内の政治を 優先に進めた方がいい みたいなこと。 0 結果は、征韓論を唱えた側が政府を去って、大久保利通が 政権を指導したため大久保政権が誕生した。 これが土の反乱や自由民権運動に影響する。
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1874 琉球人の保護を名目に台湾出兵を行う。 1875 ロシア公使榎本武揚による 樺太・千島交換条約を行う。 江華島事件が起きる 1876 朝鮮と不平等である日朝修好条約を結ぶ。 江華島事件とは、朝鮮沿岸を測量していた日本艦「揚」 ボートを下ろして江華島に上陸しようとしたところ。突然 砲撃を受けた事件のこと。 その結果、不平等条約を結ぶ こととなった。 が 1877 土族反乱による西南戦争 もともと西郷隆盛と大久保利通は仲が良か 大久保利通が暗殺されてしまい、戦争で敗北した西郷隆盛に 自殺をして、大久保利通の後を追った。 た しかし 西南戦争後、政府は伊藤博文・山県有明・大隈重信らを 中心に政治を行っていく。 1879 琉球処分を行う。 琉球処分は 琉球藩を廃止して沖縄県としたこと。
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