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現代文 高校生

「いのちは誰のものか?」 1番最後の段落に「いのちの最も基礎的な場面で」とあり、「どのような場面か」という問題が出ました。 どなたかわかる方教えてください🙏🙏🙏

25 いのちは誰のものか? 平侖 わしだ きよかず いのちは誰のものか? 鷲田清一 からだは誰のものか。いのちは誰のものか。 2 安楽死の問題をめぐって、臓器移植をめぐって、人工中絶や出生前診断の是非をめぐ って、このことがいつも問題になる。 そのとき、その問いはいつも個人の自由の問題と絡めて論じられる。個人が自由であ るとは、個人がその存在、その行動のあり方を自らの意志で決定できる状態にあるとい うことである。わたしの身体もわたしの生命もほかならぬこのわたしのものであって、 この身体を本人の同意なしに他から傷つけられたり、その活動を強制されたりすること があってはならないというのは、「基本的人権」という理念の核にある考え方であると いってよい。 3 自殺の正当化にあたっても、献体の登録や臓器の提供にあたっても、その背景にある p のは同じ論理である。生きて死ぬのはほかならぬこの自分であるから死に方は当人が決 めることができる、自分の身体は自分のものだからそれをどう処分しようと(美容整形 5 安楽死 助かる見込み のない病人を、本人の 希望に従って、医師が 苦痛の少ない方法で死 なせること。 2 出生前診断 妊婦の血 液検査などによって、 胎児の先天的な異常の 有無を調べる診断。 3 献体 教育・研究目的 の解剖のために、自分 の死後の体を大学など に無償で提供すること。 是非理念

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サイボーグとクローン人間という作品の意味段落分けの仕方が分からないです。本文全てを載せてあります。解説お願いします!

サイボーグとクローン人間 山崎 正和 テレビの教養番組で、アメリカのロボット研究の現状を見た。映像による報告はさすがに生々しく、 改めて文 明の行方について考えさせられた。 研究の一つの方向は、ロボットの精神的な能力を拡張し、判断力や感情さえ持った機械を造ろうという試みで ある。 外形も二足歩行の人体に似せ、顔の表情まで再現する技術が磨かれている。 脳の働きをするコンピュータ がさらに発達すれば、ロボットが人間と手をとって街を歩く日も遠くないという。 もう一つの方向は、人間の身体の一部を機械で置き換え、脳と機械を直結するサイボーグを造ろうという動き である。 これはすでに身体障害者の補助器具として実現していて、 肩の筋肉の指令を受けて動く精妙な義手が発 明されている。 光を感受するチップで失われた視力を回復させたり、衰えた脳の中に記憶装置を埋め込む研究も 行われている。 この努力の究極の姿は、やがて人体から脳だけをそのままに残し、四肢や内臓のすべてを機械で 補強する、人間改造計画に行き着くことになるらしい。 見ていて不思議だったのは、現場の研究者も評論家もこうした研究にきわめて楽天的だということである。 ク ローン人間の研究にはあれほどの嫌悪を示し、 大統領の禁止勧告まで生んだこの国の反応とは対照的だというほ かはない。 クローン人間を忌避させているのは、人間を神の被造物と見るキリスト教の思想だろうが、 その禁忌 が機械的な人間の製造、あるいは改造には及ばないことが、印象深いのである。 合理的に考えれば、 クローン人間の誕生はおよそ非人間的な事件ではない。 それは子が親と同一の遺伝子を持 って生まれることであるが、同一の遺伝子の共有は必ずしも個性の否定にはつながらない。人間の個性は環境や 教育に左右されるところが多く、遺伝子だけで決定されないことは、自然の一卵性双生児を見れば明らかだろう。 さらにクローン人間は人造人間ではなく、卵細胞と体細胞、それに子宮を提供する人間の親がいることを忘れて はなるまい。 そこには当然、家庭が生まれ、親子の愛や葛藤も芽生えるはずであって、子どもが感情の砂漠の中 で育つ心配は少ないのである。 しかもクローン技術が人間に適用される場合、 それが優生学的改良に直結する懸念もかなり薄い。 ある能力を 持った遺伝子が複製されても、能力が強化される理由はなく、それがそのまま子どもに現れるという保証もない。 そこには再び教育の手が加わる必要があるはずだが、その過程で子どもが自我に目覚め、先天的な素質を裏切る 可能性もあるからである。 これに比べると、ロボットやサイボーグははるかに人間の恣意に従いやすく、特定の価値観や世界観の奴隷に なる危険が高い。 肉体の腕よりも強い義手は、 強いことはよいことだという思想の実現であり、より多く環境を 支配したいという無意識の願望の反映だといえる。 脳内に記憶装置を埋め込めば、思い出も忘却も意志の力で操 作することになり、人間は自分の過去すら自分で構築することになる。 クローン技術は生命の法則に対しては受動的であって、細胞核を入れ替えた後の過程に手を出すことはできな い。だが、身体を機械で置き換える技術はどこまでも能動的であり、細部まで人間の思うとおりに造り上げてし まう。しかも注意すべきことは、そうして造り上げた身体はやがて逆転して心に影響を及ぼし、人間の考え方、 生き方を思いがけぬものに変化させるということである。 人間の心がいかに身体の影響を受け、 身体と一体になって生きているかは、毎日の生活の中で実感することが できる。 病気になれば悲観的になり、運動能力が高まれば世界を見下すような気分になる。 これまでも身体の延 長として道具を使いこなし、 機械を発達させたことで人類はどれだけ傲慢になったことだろうか。 もし将来、自 分の身体そのものを機械化して数倍の力を持ち、あるいは人体に似た機械を召し使いにできたら、 人間は自分を 神か超人のように思いなすのではないだろうか。 それが倫理的によいとか悪いとか、今日の文明の中で即断することはできない。 身体が機械になり心が神にな れば、そのときは文明の全体が変わっていて、倫理のものさしも変わっているかもしれない。 しかし確かなこと はこの変化は深刻であり、 二十世紀までの文明を終わらせるおそれさえあるということである。 興味深いという より恐ろしいのは、 現代人がその可能性を十分に自覚しておらず、その無自覚がクローン人間には厳しく、サイ ボーグには甘い価値観のよじれに現れていることなのである。 紛れもなく、サイボーグ肯定の思想の背後にあるのは、近代の脳中心の人間観である。 もっといえば、心と身 体を二つに分け、心は脳に宿っていると考える先入観である。 実は二十世紀後半の哲学はこれに疑問を投げかけ、 心と身体の一体性、相互作用を重視するようになった。 しかし、科学者を含めて大多数の現代人はまだこの二元 論を信じていて、身体を取り替えても心の同一性は守れると感じている。加えて心は脳の専有物だという、 古い 常識から逃れられないでいるのである。 その上に大きいのは、現代人が個人の福祉を絶対視し、現に生きている人の幸福を至上命令と考えていること である。 障害者や高齢者に補助器具を提供し、 身体能力を回復することは正義だという世論を、現代人は疑うこ とはできない。現にサイボーグはそういう善意から研究され始めているのであって、 そうである限りこの研究を 現代文明は非難することができない。 一方、 まだ生まれていない生命、現に生きていない個人を生もうというク ローン技術には、当然この世論の追い風がないのである。 だが困ったことに、身体能力の回復から改善までの道はほんの一歩しかない。 誰しも自分の身体を十分だとは 思っておらず、 十分にしたいと願っているものの、何が十分であるかは誰も知らない。ただ人並みに生きたいと いうつつましい願いが、とかく人並みを超える競争を招くのであって、そのことは今日の消費生活を見れば明ら かだろう。たぶんサイボーグは二十一世紀の「超人」を生むのだろうが、それはニーチェの反俗思想ではなく、 平 的生活を求める庶民のいじらしい願望がもたらすことになりそうなのである。 こんなことを考えながら、私はべつに警世論を張っているつもりはない。 いつの時代にも文明は変わるもの であるし、それも合理的な「進歩」とは無関係に変化するものだろう。 ただおもしろいと思うのは、文明を変える ものが必ずしも冒険的な好奇心ではなく、ある時代に最も常識的な、社会の通念でありうるという逆説である。 人々が「危険」な好奇心を警戒しているうちに、ひそかに安全な良識がそれ自体の足もとを隠してしまう。それが 人間の悲しさというべきか、それこそが尽きない魅力の源泉だというべきだろうか。

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⑶.⑷.⑺.⑻を教えてください

昨日、久しぶりに“梅雨の晴れ間に、大文字山を登った。先月の激しい雷雨で土砂が“クズれ、 足もとが悪いところもあって、散歩にしては 。ゲワしい道程である。そのぶん、登り切ったときの爽 快感も格別だ。山頂からの眺めを楽しみに登る人も多い。僕は大体、考えごとをしながら登るので、 山頂に着くとそのまま景色を °一督して引き返してしまうのだが、昨日は珍しく、しばらくぼうっと していた。 すると、遠く彼方に連なる山の緑の中に、キラッと光るものが見える。正体はいまひとつ。判然 としないが、山の中の何かが太陽の光を反射しているのだろうと思う。それが、キラッキラッと、繰 り返し光る。僕は遠くのその光が、遠くに見えるということが何とも不思議に思えて、ただ。ギョウ ふした。 太陽の光が何かに当たって跳ね返り、その光の粒子が空中を伝わって。フクザツな物理化学的過 程を引き起こし、結果として、脳内にある活動のパターンが生成していく。この脳の活動によって、 僕の「見える」という経験が生み出される。~大雑把に言えば、これが 科学的な説明になるだろうか。 しかし、だとしたら、なぜ山の風景は「目の前」にではなくて、遠くに、ずっと向こうに、「あ そこに」はっきり見えるのか。僕が見ているのが山の中の光そのものではなくて、そこから空中を伝 わり、目の中にまでやってきた光の粒子なのだとしたら、なぜ僕にいま「見える」のは、その到来し てきた日の前の粒子ではなくて、身体のずっと向こうの、遠くの、山の中の、まさに「あそこの」光 なのだろうか。考えれば考えるほど不思議になって、僕はただじっと、その光を見つめ続けた。 いま僕の手前の床の間に、花瓶に生けられたスターチスがある。花は、その花が生けられたまさ に「そこ」にあるように見える。僕は花から到来した光の粒子を見ているというより、その花を、 直に見ているように感じる。手の届かない、日で直接触れているわけではないその花が、その場所 森田真生「白紙」ワークシート*読んで考えたことを、話してみよう* ト (1)-7見える」ということの にありありと、はっきりと見える。 光の粒子と網膜の物理的接触というよりも、もっとはるかに親密な関係を、僕は花と結んでいる ように思える。花が「見える」ということは、どこか深いところで花と直に触れ合っていることだと いうふうに思える。花だけでなく、花瓶と、あるいは山と空と、つまりは環境のすべてと、いつの間 にか僕は心を通わせ合っていて、その「通い合う心」が「見える」「聞こえる」「わかる」ということ を、背景で支えているような気がしてくる。 「見える」ということは実際、今の人類にはとてもまだ言葉にできないような、不思議で奇跡的 な事態なのではないか。あまりに不思議で、あまりに大きな謎なので、(かんら)「当たり前」と いうことにされてしまう。 不思議なことを当たり前のこととして、(すなわて) は前に進めないところがある。 (下とんに)「見える」「聞ごえる」機械は作れないとしても、「見える」ことを前提として、そ の能力を拡張する眼鏡や望遠鏡や顕微鏡を作ることならできる。自力で「わかる」機械はなかなか作 れそうにないが、人の「わかる」力を前提として、それを延長することならコンピュータにできる。 そうして人は、最大の謎を、最奥の深秘をひとまず括弧にくくることにして、不思議の先に、広 大な知と実用の世界を構築してきた。いまや 前提の、すべてを支える原初の不思議の、不思議であることすら自覚されない。 「前提」とすることによってしか、人 い その構築された世界はあまりに壮麗で、足もとの

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国語 中学生

助けてください‼️🆘 入試問題aです‼️

医屋系博民付Pいる行為のことであり、 単に歩いて山頭に立てばいい JSの時Pe 登山とは厳部Sうと「自由=自カ1白己質任」の 6金国6求部で、自らの中いて展闘される自曲な行為である リヨuニn6は料問と刻極的な問係にあると線Sたがそれは時日条社 rriU日に中へ製= 0 ○グイレAトに直島であるさま 〇 シビアな1最しいさま。 rr4こ = O ゆnKP区系中いーーPある。自田をまったたく0JJSFで 素日権計コマ A さにさ 9 9世 E き9知用口「審に ○AnAAモール多くの小元店名試った大 な複合商施 〇番突と1見た目にきわやかで勇ましいさま ○Aわ ×訓 P にな以岩田郊後に再び結し。 を支えるときに用いる登山用其,一 れわれが自由といてイメージするような 「好き時手ができて居心地が さ 作田国9E庫 法9出間 計行E 9 ていaので東時はないのだが、 その分、 自分ので命を管理したたれ 4は計間回日o() (収撃響会「新くG表現』が) れる、山を舞台にした単なる運動行為にすぎないということになる も。それは厳密な意味での整山ではなく、管理された世界の内側で行わ Bでプぱりに変質してしまったからである。だから夏の富士山に登って 料断にもJTニトて行動を組み立て、結的にその判が防りだたと ならない。山に登る以上は完全に自分の買任のもとに判断を下し、その一 地人の力は一あてにできず、必ずす自分のカで割ト戻ってこなおれ さ置さ当時店 J へ 真 だもちろん社会の理から世村留は戦器0H 山者は に 中リコ県ヶ向山もまた社会6東の及ばな二在由な行為であるは 保県9に出Pはなく"人間社会の枠組みの内側にあるなる地 にき行落 9 ()E EH国年さ 山はこうした不自由な規則を運用しなければならない状況になっている た9 藤計国9確曜9時 9学9 とE (課母) rA rtrri3市射声等がさ時 受り方をしようとそれは当人の自由なわけで、そんなことを他人からと ら登る速区や型り方が変わるのは当たり前だし、それ以にUE4のさ dSrr10時 uや出国Y ゴu E E9 ヨuニn6 した自然の開提置中 きる場でり 法SがE> > > き は夜を強して富土ヨに0JJGHうであるが、それがたとえNS4 ている現在の富士山では、こうした自由や自力、U部出JSnた登山 *reさ 所初石登け9 A 物岸 rにに C ところが、弾丸登山の自粛呼びかけや入山科の徴収が本格的に行われ 付近では三十分ほどのプチ派番が発生していたし、議上に出ると獄えき する日の出の時間ではなく午後の早い時間毒だったが、それでも頂上 なわない。このときに私が昼調したのは、バスの時間の関係で、最も混 いる。だが、対象に関する興味という点では夏の醍雑した富士山にはか一 さえすにば人間は人間自身で主尋権を避って暮らすことができるのだが、 かない願ら3部界がひろがっている。 文明社会とは人間が決めた規則 Sゆ国Kが編等Sことであり、 そこ」には人間の創御やコントロールが型 しい電組6番Pある。自然とHく間が生活する社会や文明の外側にの PR0ASn域P興味原Aっ pともと山とは、人間にとっては々 かく、 登山の本来の姿からはかけ離れた、 さわめて非 」 ュースを新聞で読んだが、こうした一連の努力は、そのよしあしはとも 弾丸登山を自粛する呼びかけや入山料の本務的な微収が始まったとのニ 回和Hヨ番監文化 に発盛やれたことにト、二〇一四年八月、 る36P安が指せは今チも者の時間に受りにに行きたいと思って 著る認-S"ヨ P92張っているのは() mS細 のP国U型がって非常にりえのある、 いい山ったという量 が奪われた。このときは時間切れで春頂を断念した寮山者も何人かいた 富士山は初めてだったが、思が強くて気温が低いので、それだけで体力 に行きたくてたまらなくなり、友人を訴って日帰りで登ってきた。冬の これは何を意味しているのだろう。一 g三度日は二0-三年の冬のことだ。+1月に突餐、熱病のように雪山一 (製) 9」間 に耳にするようになり、どんな状況になっているのか確かめてやろうと一 4お2 数年前から様H闘ヨ者が急増しているという話を頻 いない。D°そこにあるのは日常の延長そのものである。 いったい 店」 け TEH時9回 とは、 日常から一時的に設することだ。 昔の山者が社会無を 石0JS' なるスポーツの前書J 番ある。 山に登る」 ゲサと音座立てながら下山した。広大な斜面を織爽と滑り降りるスキー 事に感地さ んで、ひざしで溶けてクサったザラメ1の斜画をグサ 『r d 面場付rtu ト 率えPJヨ4単国を分けて捉える彼らの見方には、だしかに一つた し*編能JRA和にビッケAを使って停止するための訓やアイゼンの 基中にサ 対 9 へ帰 「 r9 >9H9E . 所属していたクラブの先輩が雪山訓締を行うというので、それに参加し ニの6が霊業な加だと時PS"山と世闘はいろいるな意味で対 図 や 在の富士山には使問があるのである。これまで私はヨと モールのような、 のんびりとした平和な雰囲気が感じられた。 (中略) 次の文章を読んで、あとの口から穴までの間いに答えなさい 国

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