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RECE E.F
文学とは何か 加藤 文学評論
文は描くものですが、必ずしも目に見えるものを目に見えるように描くものではあり
ません。もし目に見えるように描くことが目的であるとすれば、どのような散文も、フロベー
文でさえも、ありふれた映画の一場面に及ばないでしょう。 「感情教育」のポウト
がどんなにいきいきとセーヌ河の風景を描いているにしても、その風景は、目に見える
ようであって、目に見えるのではありません。ところが映写幕の上には、見えるような風景 5
ではなく、実際に見える風景があらわれる。 映画の魅力はそこにあります。 もし小説の魅力
に⑩ヒッチキすることはできない。客観描
同じ性質のものであるとすれば、小説が映画に
は、それが目に見えるものを目に見えるように描くということを意味するかぎり、可能で
あるにしても、小説的表現の素材(言葉)にふさわしい方法ではありません。言葉には意味
があります。意味は想像力に訴えます。写真は、目にうつる一切のものを記録します。 記録 1
は感覚に訴えます。 セーヌ河の風景を客観的に再現するという目的は、写真という表現手段
にふさわしく、言葉という表現手段にふさわしくないということができるでしょう。逆に、
セーヌ河の風景をながめる青年フレデリック・モローの感動を再現するという目的は、言葉
にふさわしく、写真にふさわしくない目的です。小説における散文は、まず主人公の感動を
その感動のなかに誘いいれながら、その感動を通じて周囲の風景を想像させよ 5
うとするときに、独特の能力を発揮します。 その逆の手順をふむときに、たとえばセーヌ河
の風景の客観的描写からはじめるときに、散文はその無能力を暴露します。これが、小説に
散文を、その描く対象の側から考えてみるときに、当然見いだされる原則です。しか
し、もういちど、散文を描くという機能の側から考えてみると、小説における、または文学
における散文の性質とは、どういうものでしょうか。 散文における言葉は、ある対象の符号 20
ですが、具体的な特定対象の符号であるのは、固有名詞だけです 「東京」という町は、世
界中に一つしかない)。しかし普通の言葉は、特定対象の属する群の符号である(「町」は、
東京だけでなく、他にいくらでもあります)。言いかえれば、特定対象を名づけるというこ
とは、一般に、その対象を分類することです。 分類のしかたは、たくさんあります。一杯の
コーヒーという特定対象をわれわれはコーヒーという言葉でわす「コーヒー」として分 4
類することもできるし、飲物、ヨウエキ、物質等の言葉で表現する(そういうものとし
て分類する)こともできます。 どういう分類のしかたを採用するか、すなわちどういう言葉
ぶかは、われわれ自身が、われわれとその対象との関係に応じて、決定する他はないで
しょう。言葉による表現とは、われわれと対象との関係を限定することであり、逆に、その
ような限定を伴わずに言葉で何ものかを表現することはできません。言葉によって世界を描
くということ、つまり散文をつくるということは、本質的にわれわれと世界との関係を限定
することである。あるいは、われわれにとっての世界を定義することである。日常的会話は、
日常生活の約束と習慣にしたがって世界を定義します。 文学的散文は、日常的定義とは異
なる独特の定義によって世界を成立させるものでなければなりません。 小説文を読むと
そのことにほかならないでしょう。フロベールは、そのことを意識せずに、
客観描写という方法論を発明しましたが、 そんなことが完全に実現されることは決してない
ので、彼の作品も彼の方法論を裏切っています。 逆説的にいえば、裏切ることそのことによ
文学として成立しています。 それは、そのはずであって、主観をまじえずに、革命の情
景を描写するというようなキョクタンな場合を考えてみれば、明らかにわかることです。
ある人は、パリの人民大が第二帝政を打倒したと書きます。
中を騒がせたと書きます。 「人民大衆」という言葉も「不足の輩」という言葉も、単に客
ます。またある人は不起のが世の
観的な対象を示すのではなく、その人と対象との関係を示すものです。世界を定義せずに、
何事かを言葉で表現するということが、そもそも不可能である。作家の責任ということもそ
白梅図
文化論
→評論・随筆・小説
→詩・和歌・短歌歌
Aではなとうっと
問四
B (
こから出てくるわけで、世界と自分との関係を定義するその定義のしかたの責任を、あらゆ
作家が負っているということになります。
それでも、客観描写ということが成り立つとすれば、それは意味づけのしかたそのものに、
一定の約束があり、個人的主観によってその約束が破られないという場合でしかないでしょ
う。たしかに、科学者はそういう約束をもっています。解剖学教科書のジョジュツなどは
その意味で客観的であり得ます。しかし小説家にはそういう約束がない。 対象が人生である
場合にそんな約束はあり得ません。「人生襲」というものはない。人それぞれにとって「わ
傍線部~の片仮名を漢字で書け。(5点×5=25点)
) (
人生観」があるだけです。
「文学とは何か」 角川新書による)
問一
⑩(目頭
(溶液)
⑥(極端)(敘述
問二
部とあるが、本文中にはこれと同一の内容を端的に表現した言葉がくり返し使
われている。これ以降から抜き出して書け。 (1点)
)
問傍線部とあるが、この内容を説明している部分を本文中より五十二字で抜き出し、
最初と最後の三字を書け。(句読点も一字に含む) (10点)
傍線部 とあるが、 「日常的定義とは異なる独特の定義」とは何か。本文中の筆者の
論旨にしたがって、六十字以内で書け。(句読点も一字に含む) (10点)
・
問傍線部とあるが、ここでいう「対象」とは、具体的には何を指すか。また、そ
の「対象」を描くにあたって、「人民大衆という言葉」を使った場合、「不退の輩と
いう言葉」を使った場合、それぞれ書き手と「対象」 とのどのような「関係」がそこに示
されているのか。簡潔に説明せよ。 (1点×3=4点)
FO (RACEPT
粉に
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