五胡のたてた諸国のなかで、 鮮卑の拓跋部のたてた
ほくぎ
たい ぶてい
北魏が台頭し、太武帝が439年に華北を統一した。
386~534
へいじょう
こうぶんてい
位 423-452
ふく
だいどう
孝文帝のとき、都を平城 (現在の大同市) から洛陽に移し、胡服の禁止な
位 471~499
ダートン
南北の対立
どの漢化政策をすすめた。 このような動きのなかで、 均田制が施行され,
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戸籍を整備するため三長制も実施された。 これらの諸制度は, 土地と人
はあく
民の正確な把握と, 税の確実な徴収をはかったものであった。
ところが,漢化政策は北方に残った人々の反発をまねき, 軍隊の反乱
ほくせい
ほく
をきっかけに北魏は東魏と西魏に分裂した。さらにそれぞれが北斉と北
534~550 535-556
しゅう
周にかわり 北周が北斉を併合した。 北魏以後のこれら華北の5王朝を
556~581
北朝という。
439-581
一方, 江南の東晋は約100年続いたが, 臣下の武将が実権をにぎるよ
そう
せいりょう
ちん
うになり,以後, 宋・斉・梁・陳の4王朝が興亡した。 これらを南朝とい
420-479 479-502 502-557 557-589
<->2
420-589
りくちょう
い 北朝と対立した時代を南北朝時代という。 また, 呉・東晋を加えた
江南の6王朝は,いずれも健康 (呉の建業) を都とし, 六朝と総称される。
華北から江南に移ってきた多数の貴族・豪族・農民らは, 豊富な水と温