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文章IIIの⑦が、道長を指すらしいのですが、なぜそうなのか教えてください😭🙏🏻よろしくお願いします🙇🏻‍♀️⤵️

二 かみ 【文章Ⅰ】 ばこく こうてう 次の四つの文章【I〜W】を読んで、あとの問いに答えよ。(設問の都合上、【文章Ⅰ】には改変・省略した箇所がある。また、設問に 字数制限がある場合、句読点は字数に含むが、漢字の読み仮名は含まない。) えちぜん 恋の話の前に、私が越前に下った経緯を説明しなければならない。長徳二(九九六)年、父が十年の無職状態から浮上して、大国越前の 守という官職をえたいきさつだ。 (注1)め もく あわせ この年正月二十五日、地方官の人事異動 「県召し除目」が行われて、父は淡路守に任ぜられた。一条天皇への代替わり以来、役人としての 資格のみで仕事なしという状態に甘んじていたのが、ようやく定職にありついたのだ。だが父は喜ばなかった。淡路は、国の等級では最低の 「下国」なのだ。 ふみ 父は「申し文」を書いた。申し文とは、人事異動を希望する者が書く自己推薦状のようなものだ。朝廷に提出するのだから、もちろん 漢文で記す。仰々しい言い回しや故事を連ねて、何とか目指す官職にありつきたい気持ちを表す。異動の季節には多くの官人がこれを書い で、天皇の、また朝廷のお恵みにすがるのだ。父はといえば、人に頭を下げるのが苦手なのだろう、まだそれを書いていなかったと思う。 だがこの時は、重い腰ならぬ重い筆をあげたのだ。十年日干しになった挙句に淡路国の守ごときかと、よほど歯噛みする思いだったのでは ないだろうか。 父の申し文の一節は、いつの間にか世に流れ出て今も知られている。 あずぐ こうい うる 苦学の夜、紅涙襟をす 苦学に励んだ寒い夜は、つらさのあまり血の涙を濡らした。 除目の後朝、蒼天眼に在り 除目のあった翌朝は、 X のあまり真っ青な空が目にしみる。 うてんまなこ ③は いったい何が起こったのか、私には分からない。だが除目の三日後、突然朝廷から言い渡しがあって、父は淡路から越前の守へと転ぜら れた。越前は北陸道の大国だ。話によると、藤原道長殿がそのように指示されたのだという。除目では源国盛が越前守に決まっていたのを 急遽停止させて、父にその官を回されたのだ。あの申し文に効果があったのだろうか。 父が越前守に任ぜられたことは、私の将来にも陽がさしたということを意味した。冬の時代から春の時代へ、人生が変わる予感。それが 本当になったのが、翌正月の恋だった。 まんこ (山本淳子「私が源氏物語を書いたわけ A 「ひとり語り」による) (注)1 県召し除目―京都)の官職を任命する秋の行事(司召し)に対して、地方官を任命する春の行事。 9

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日本史 高校生

写真の内容が、何度読んでも全然意味がとれないです。どなたか短く内容をまとめてくれないでしょうか。

になった。 10世紀後半には、任地に土着した国司の子孫たちゃ 荘園の発達 こくが 地方豪族の中に、国衙から臨時雑役などを免除され かいはつりょうしゅ て一定の領域を開発する者が現れ、11世紀に彼らは開発領主と呼ば ○れるようになった。 かんしょう 開発領主の中には、国衙からの干渉を免れるために、所領を含む きしん 広大な土地を貴族や大寺社に寄進し、その権威を背景に政府から官物 ふ ゆ かんしょう ふしょう や臨時雑役の免除 (不輸)を認めてもらう荘園 (官省符荘 6 ) にして、 あずかりどころ げし しょうかん みずからは預所や下司などの荘官となる者も現れた。 寄進を受け せっかんけ た荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに摂関家や天皇家な ほんけ どに重ねて寄進された時、上級の領主は本家と呼ばれた。 こうして できた荘園を寄進地系荘園と呼ぶ。 やがて、 荘園内での開発が進展するにともない、 不輪の範囲や対象 をめぐる荘園側と国衙との対立が激しくなると、 荘園領主の権威を利 けんでんし ふにゅう ○用して、 検田使など国衙の使者の立入りを認めない不入の特権を しょうえん る荘園も多くなっていった。 受領は荘園を整理しようとしたが効

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日本史 高校生

問1、問2、問3について教えて頂きたいです。

料書 P44~65〕 中世社会の成立 4ページ 摂関政治と文化の和様化 [教科書 P44~54〕 I) 空欄にあてはまる語句を入れなさい。 また、下線部の問いに答えなさい。 1. 貴族社会と摂関政治〔教科書 P44~47] ED 平安時代になると藤原房前の子孫である藤原氏北家が天皇の母方の親族a 外戚となり勢力を伸ばす。 藤原冬嗣・・・ 房前の曾孫。嵯峨天皇の信任を得て、蔵人頭となる。 - 藤原良房 ・・・冬嗣の子。 842年の承和の変で伴 (大伴) 健岑・橘逸勢らを退ける。 866年に応天門の変のとき、臣下として 初の(摂政)となる。また、応天門の変を利用し、有力氏族の伴氏・紀氏を没落させる。 藤原基経・・・良房の養子。 884年に最初の(関白)として天皇を補佐した。 藤原忠平・・・基経の子、時平の弟。 朱雀天皇の摂政、朱雀・村上天皇のb関白を務める。この ろ、醍醐・村上天皇による延喜天暦の治とよばれる天皇親政が行われる。 藤原実頼・・・忠平の子。 969年の安和の変で左大臣源高明が左遷されると以後、ほぼ常に摂政・ 白が置かれるようになる。 藤原道長)・・・忠平の曾孫。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の外祖父となり、摂関政 最盛期を実現。 浄土教に帰依し、 法成寺を建立。 藤原頼通)...c道長の子。 後一条・後朱雀 後冷泉の3天皇の摂政・関白となるが、 の娘と天皇との間には、 皇子が生まれなかった。 宇治に平等院を建立。 世紀末~10世紀 (平安時代前期~中期) 天皇が延喜の荘園整理令を出す→班田制の立て直しをめざす。 制度の変更→国司の最上席者の権限が増大し、受領とよばれるようになる。のちに赴任せず 入を受け取る (遙任)がさかんになる。 農民 (田堵) や田地の耕作を請け負い、租庸調や公出挙の利息にあたる官物や臨時雑を国 納めた。 課税の対象となる土地は名という単位にわけられ、 税の請負人は負名とよばれた。 がんから土地に変化。 してもらう

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