漬道文神だ可
業る。
るは
わかばやし みき お
若林 幹夫」
遅れてきた「私」
常識的に考えると、「社会」というものは「個人」の後から現れる。社会を構成する
メンバーや要素である個人がまずあって、そうした個人の集まりゃつながりとして社会」
が存在するというのが、たぶんごく普通の考え方だろう。社会を構成する要素である
個々人なしに、それ以前に存在する社会などという奇妙なものは、どこにも存在しない
からだ。
だが、本当にそうなのだろうか?
私やあなたといった個々人の人生の具体的なあり方から考えてみよう。
アダムとイヴのような神話の中の「最初の人間」はともかくとして、私たちが生まれ
てきたときにはすでに、そこには「社会」||他の人間たちが作った関係や集団やルー
ルや慣習||が存在していた。私たちは皆、自分に先立って存在する社会の中に生み出 0
され、その社会に組み込まれて、社会の構成員になったのだ。こうした事実関係に即し
圏 の使からり現れるのではない に、 個人は常に社会の中に産み処
まれる。私の存在は、社会の存在に対していつも遅れ
「私の存在」が「社会
の存在に対していつも
遅れ」るとは、どうい
うことか。
て、社会の中で与えられるのだ。
以の生まれたばかりの赤ん坊は、さしあたり社会的な個
人ではなく、生物としてのヒトの個体にすぎない。だ
が、そのヒトの個体としての赤ん坊は、生まれてすぐ
に周囲の人間たち||すでに社会を生きている人間た
ちーーによって、息子や娘、子どもとして扱われ、子
や孫といった親族関係上の位置や名前を与えられ、
m
社会の中の個人。として扱われる。自分自身を社会」
の中の誰かとして自覚する以前に、周りにいる人々に 2
よって社会の中の個人。にさせられるのだ。 いる
私自身もかつてそうだったし、私の子どもも現にそ
うなのだが、幼年期の子どもは自分自身を言う一人称
出場
として、「ぼく」や「私」という言葉以前に「○○ち
ゃん」といった他者から名指される二人称的な言葉を "
EET
使う。それは、人が社会の中で見いだすのが、「自分一
日
論
139 遅れてきた「私」
の登録商標で