学年

質問の種類

歴史 中学生

(1)〜(36)の答えお願いします🙇

【幕藩体制下の日本】 1 日本では、豊臣秀吉の死後に徳川家康が( ① )に任じられて、江戸幕府を開いた。 江戸幕府が各地の大名 家藩)を従える統治体制を(②)と呼ぶ。 大名は領地の支配を認められた代わりに、 将軍に対して(③) (土木工事) などを含む軍役を務めた。 2 徳川家康は、対馬の(④)を通して朝鮮と(⑤)(⑥)の役の講和を実現し、対馬藩に朝鮮との通交・ 貿易の独占を認めた。 3 2代将軍秀忠や3代将軍家光はキリスト教の禁止を強化しつつ大名の統制を強めた。 1635年には諸大名 (7)を義務づけた。 4 江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、オランダ商館を(8)の出島へ移した。 5 幕府はキリスト教を厳禁し、)を制度化し、すべての人が仏教寺院の⑩)となることを義務づけた。 日本への通商の要求と対応】 1 1792年、 根室に来航したロシア使節( 11 )に対して、江戸幕府は長崎で交渉するとした。 これに従って 1804年に長崎に来航した使節(1)に対し、幕府は「鎖国」が「祖法」であるとして通商を拒絶した。 2 幕府は1825年に(1)を出したが、アヘン戦争の戦況が伝わると、軍事攻撃を受けてその権威が傷つく 事を恐れ、 1842年に(1)を出した。 一方で、 水戸藩は(1)を契機に尊王攘夷論が提唱されていた。 3 アメリカは、太平洋を渡り中国と往復する汽船が石炭・水の補給のために日本に寄港をすることを認めさせ ようと、オランダ商館経由で幕府に予告した上で、 大統領の国書を託した ( 15 )を派遣した。 リーの来航】 4 11853年に江戸湾口に現れたペリー艦隊は、日本側を威嚇して大統領の国書を受け取らせ、翌年の返答を 約束させ退去した。 2 老中首座(⑩)は、ペリーの要求を朝廷に報告し、諸大名らに意見を求めた。 ペリーが1854年に再来航 すると、幕府は(1)を結んだ。 3 (17)では、アメリカ船が下田・箱館に寄港すること、 日本側が漂流者を保護すること、下田へのアメリ カ官吏の駐在、(1)などを認めたが、通商は認めていなかった。 開国前に、鉄製大砲を鋳造するための(1)の建設など、 すでに西洋軍事技術の導 入が始まっていたが、開国後には、幕府は(2)と講武所を設け、 長崎でオランダ海軍派遣隊による汽走 軍艦を用いる海軍伝習を行なった。 5 ペリーは(1)を結んだ直後に、 琉球との間に通商を認める(2)を結んだ。

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

大至急です! 日本史でわからない箇所があるので教えていただきたいです 【問】当時貿易を認めていたオランダと中国船以外の外国船が日本近海に現れ、薪や要求したり通商を要求するようになって、幕府がたどり着いたのがこの打払い、つまり攻撃するという方針であった。1837年、アメリカ... 続きを読む

水野忠邦は, なぜ天保の改革を おしすすめたのだろうか。 海辺の村 ②お咎め 一体いきりすニ限 らず、 候処、専要の事に候条、油断無申し付けらるべく候。 察度。ハ之有間敷候間、 二念無、 打払を心掛、図を失わざる様取計 等差出すに及ばず、其分二差置、若押て上陸致し候ハゞ、搦取、又 二有合候人夫を以、有無に及ばず、一図二打払、逃延候ハゞ、追船 打留候ても苦しからず候。...…. 右等の船万一見損、打誤候共、御 間、以来何れの浦方二おても、異国船乗寄候を見受候ハゞ、 其所 南蛮、西洋の儀は、御制禁邪教 (『御触書天保集成』) の国二候 候察は等間 処度と打差 有吉 以体 に候す候来い までに人に何いき 180 るも及夫ぷれり をす ず以浦 ① 異国船打払令D] 追其 計御又船所 候 4. 幕藩体制の動揺 ぐんかん ぶんか 10 |海防体制の強化 1808 (文化5)年には,イギリス軍艦フェートン号が、 交戦国であったオランダ商船を追って, 長崎に入港 と蛮社の獄 30 する事件がおこった。その後も,イギリス船やアメリカ船が日本近海を 航行していたので,幕府は,1825 (文政8)年に異国船打払令を出して、 海防体制を強化した。そのため,1837(天保8)年,日本人漂流民を護送 するとともに,通商を求めて浦賀に来航したアメリカ合衆国の商船モリ うらが ソン号は,打払令によって砲撃を受けた。こうしたできごとに対し、簡 がく ぼじゅつゆめものがたり わたなべかざん たかのちょうえい _しんきろん 学者の渡辺崋山は「慎機論」 を,高野長英は『戊戌夢物語』をあらわし、打 ばんしゃ ごく ち払いの不当を論じたため、 幕府によって処罰された ( 蛮社の獄)。 てんもん はん 19世紀になると,幕府も洋書の翻訳を開始して, 美・地理・軍事な どに関する新知識の吸収につとめ, 多くの諸藩もならった。江戸と長崎 で始まった蘭学は,京都, 大坂, さらに全国各地に広まった。 オランダ 商館の医師として長崎に来たシーボルトは, 鳴滝塾を開いて, 医療とと らんがく しょうかん なるたきじゅく 1796~1866 たかのちょうえい もに西洋の学問を教え, 高野長英らを育てた。 1828年, シーボルトは、 帰 国の際、持ち出し禁止であった日本地図の所持が発覚して国外追放の処 たかはしかげやす 分を受け, 地図を渡した幕府天文方の高橋景保らも処罰された。 1785-1829 p.184 おおしおへいはちろう ちょっかつ 大塩平八郎が幕府の直轄都市 内憂外患 ほうき てんぽう き きん 大坂で武力蜂起したのは、天保の飢饉で市中の米 が不足しているさなかの1837年3月 (天保8年2 ちんあつ 月) であった。 蜂起はすぐに鎮圧されたが, 大塩は まちぶぎょうしょ よりき もともと, 大坂町奉行所の与力という重要な役職 にあり、著名な学者でもあったため, 人々は彼の 行動を知って衝撃を受けた。 蜂起の情報は,噂も うわさ まじ もんてい 交えながら全国に広がり, 各地で「大塩門弟」 「大塩 「残党」を名のる武力蜂起や一揆を誘発し, 幕府に動 いっき ゆうはつ 揺をあたえた。 そもそも前年からこの年にかけて 全国で150件以上の百姓一揆が発生していた。 飢 ひゃくしょう ないゆう 饉に起因するこれらの出来事は、 国内における深 刻な事態, すなわち 「内憂」 として受けとめられた。 ちょうどこのころ, 外国船がひんぱんに日本近 辺に接近していた。 18世紀末から19世紀初頭まで は、ロシア船の蝦夷地への接近がおもな問題だっ たが,1810年代以降は,太平洋側で,イギリスを 先頭に欧米諸国の船の動きがみられるようになっ た。当時,これらの国々は,産業革命を成しとげ えぞち 第3編 近世の日本と世界 sto + wo きょてん て資本主義市場を拡大し、 世界各地に貿易の拠点 ほげい を求めつつあった。 捕鯨船の活動もさかんとなり 日本近海でめだち始めていた。 こうした動きは, 外国勢力が日本にあたえる脅威,すなわち「外患」 として受けとめられた。 きょうい がいかん 江戸幕府は,将軍が武力で日本列島の内部や周 辺海域の平和を維持し、 邪教としてのキリスト教 から人々を守ることで、社会秩序を安定させてい るという建前をとっていた。 このまま外患を放置 すると、将軍の権威は低下し、そのことが内憂を いっそう誘発することにもなりかねない。このよ うに外患が内憂と結びつくことを、幕府は非常に おそれていた。 こうした事態を打開するためには、将軍のもと で軍事力を強化して集中させ、海防体制をととの えつつ,将軍の権威を維持することが必要だと幕 この考えが、天保の改革の基本的な 府は考えた。 姿勢となっていったのである。

解決済み 回答数: 1
1/15