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欧米の軍事力を痛感した長州藩の木戸孝允(桂小
ちょうしゅうはん
きとたかよ つこ
つうかん
1833~
れっよう
ごろう
たかすぎしんさく
倒幕運動の展開
1839~67
はんせい
けいおう
たい0
とうばく
てんかん
そんのうじょうい
さいごうたかもり
さつえい
おおくほとし
ぶんきゅう
さつま
こうし827~77
1830~78
の高杉晋作
みち
1828~85
ゆうはん
あしがる
武士,定軽のほか, 農民や
町人からも有志をつのって組
薩摩藩を支持するようになった。
ついとう
織された。
けいおう
とさ
さっちょう
ちゅうかい
さかもとりょう ま
1835~67
いえもち
将軍家茂の病死を理由に,戦いは中止された(第2次長州戦争)。
きょうさく
15
ひゃくしょう
よ なお
価上昇もあり,民衆の生活は苦しくなった。「世直し」をとなえる古。
一接や打ちこわしが激発し, 1867(慶応3)年には, 「ええじゃないか
の坂本龍馬
げきはつ
いっき
の踊りが流行して, 社会の混乱はさらに深まった。
しゅうにん
とくがわ ひとつばし よしのぶ
15代将軍に就任した徳川(一橋)慶喜は,幕府政治
大政奉還と
戊辰戦争
こう ぶがったい
の立て直しをはかったが, 公武合体の立場をとる 。
はんしゅやまうちとよしげ ようとう
土佐藩は,後藤象二郎や坂本龍馬などが前藩主山内豊信(容堂)を通じ
ごとうしょう じろう
1838-9いほうかん
1827~72
けん ぎ
て将軍慶喜に大政奉還を建議した。慶喜はこれを受けいれて, 1867(慶
応3)年10月14日に, 政権を朝廷にかえし, 新たな政治体制のなかで主
導権をにぎろうとした(大政奉還)。公家の岩倉具視らと結んで武力例
くげ
いわくらとも み
の徳川慶喜
1825~83
幕の準備を進めていた薩摩藩と長州藩は, 慶喜に対抗するため同じ日
幕末の京都
ひとつばしよしのぶ
幕末の京都では、 幕府や薩摩
あいづ
まつだいらかたもり
では、一橋慶喜,会津藩 (藩主松平容保), 桑名
藩の勢力が朝廷の公武合体派と組んで政治の実
権をにぎっていった。
くわな
こうぶがったい
などの雄藩藩主たちが進める公武合体運動と,
長州藩を中心とする尊王捜夷派の動きとがはげ
しく対立していた。 尊王壌夷派が1862(文久2)
年以降優位に立ったが. 八月十八日の政変で勢
力を失った。さらに, 京都守護職の下で市中警
備にあたっていた新撰組によって尊王壌夷派が
1836~93
ぶんきゅう
せいへん
しんせんぐみ
さっしょう
殺傷された池田屋事件が発生し, これに憤激し
た長州藩は、藩兵を上京させて禁門の変をおこ
したが、敗走した。 そして禁門の変以後, 京都
いけだや
ふんげき
きんもん
きょくちょう
こんどういう
ふく ひじかたとしそ
の新撰組局長の近藤勇
の新撰組副長の土方歳三