ぼうべき2
本に攻めてきました。 しかし、 幕府が海岸に築いた石の防壁や、
かつやく
こけにん
御家人の活躍で, 元軍は上陸できず, 暴風雨にあって大損害を受け
20
こうあん
ばんこう
引きあげました(弘安の役)。 この二度の襲来 (元寇の後も、元は
えんせい
日本への遠征を計画しましたが, 実際には行われませんでした。
このように戦いはありましたが, 元と日本との民間の貿易は行
ぜんしゅう
そう
われており、禅宗の僧も日本と元との間を行き来しました。
→p.75
かまくら
めつぼう
鎌倉幕府の滅亡
幕府の支配を支えていた御家人は、領地の分
かつ
割相続によって生活が苦しくなり、土地を手
まりました。
放す者もいました。幕府は,御家人が手放した土地を返させる徳 高麗や
せいれい 7
動きが強
10 政令を出して救おうとしました。 しかし, モンゴルの襲来に備え
るために北条氏の一族に権力を集中させると, 幕府への反感が強
かまくら
一方, 鎌倉時代後期に全国で交通が活発になると、物資が集ま
る港を支配して豊かになる武士が現れました。 経済が発展した近
きん
ah p.277
15 畿地方を中心に,荘園領主や幕府に従わず、年貢をうばう武士も
現れ、悪党と呼ばれました。
あくとう
カップ
こうした中、後醍醐天皇は政治の実権を朝廷に取りもどすため、
幕府をたおそうとしました。 天皇は、一度は隠岐 (島根県) に流さ
おき しまね
くすのきしげ
れましたが, 楠木正成などの新しく成長した武士や, 有力御家人
こう
あしかがたかうじ
の足利尊氏などを味方に付け, 1333年に幕府をほろぼしました。
弘安の
せん!
三の丸尚
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が言
る。
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買関
を
で目
は
2節