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国語 中学生

採点をお願いします。

月 日 100 得点 テーマ別入試攻略 m)活用力2 歩き食べに【賛成】 2修学旅行で礼子さんたちのグループが訪れた「A寺通り商店 街」は、通りの両側に食べ物を売る商店が数多く並び、いつも多くの 人でにぎわっている有名な観光地です。しかし最近では、観光客によ る「歩き食べ(ものを食べながら歩くこと)」が迷惑行為であるとし て商店街の周辺では問題になっています。礼子さんたちはここでイン タビューを行い、それを元に意見文を書くことにしました。次のイン タビューでの主な回答と、インタビュー後の礼子さんの感想を読ん で、あとの問いに答えなさい。 観光客 歩き食べは、手軽においしいものを 食べながら、あちこちのお店やお土産 を見てまわることができるので、とて も楽しいです。今回の旅行の目的です。 (R2 島根·改) 商店街の店主 一時期お客が減っていたこの商店街 も、旅行雑誌に歩き食べが取り士げら れて、大きく盛り返したから、喜んで いるよ。 -D <寺通り商店街周辺でのインタビューで得られた主な回答】 ·歩き食べに【反対】 近所の住民 【インタビュー後の礼子さんの感相想】 ここで歩き食べをした後、ゴミをポ イ捨てする観光客が多くてね。街が汚 れて、住んでいる者は困っているよ。 商店街での歩き食べに困っている人が多 いということは予想以上で、このままでは いけないと感じました。改善方法を何か提 案したいと思います。ただ、歩き食べに賛 成の人も多いこともわかりました。歩き食 べに賛成の人のことも考えた改善方法にす る必要があると思います。 礼子さん :08 地元の高校生一 歩き食べの観光客は前をよく見てい ない人が多いから、よくぶつかったり、 食べ物がこっちの制服に付いたりする んです E.インタピューの際、インタピューする側 (質問者) の態度として適 切でないものを、次のア~エから一つ選び、記号で答えなさい。 3 文章は、次の書き出しに続ける形で

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世界史 高校生

この問題の答えが分かる方、お願いします!! 分かるものだけで大丈夫なので教えてください。

7章 アジア諸地域の繁栄 83 44 演習 問題>>>>>> 1 [ティムール朝とサファヴィー朝 (12 明治大学より作成) 1 現在のイランにあたる地域は政治的には極めて複雑な歴史をたどっている。7世 問10 紀以降,イスラーム諸王朝の支配下にあったが,13世紀にはモンゴル人の勢力がお 2 よび,(O)国の支配下にはいった。(①)国ではその後イスラーム教が国教に定めら れ,そのもとでイラン=イスラーム文化が繁栄した。しかし14世紀にはこの国も分 3 裂して衰退し,代わって。ティムール朝がこの地を支配することになった。ティ の b彼の死後,帝国 5) a ムールは中央アジアから黒海沿岸にいたる大帝国を建設したが、 は次第に分裂し,最後は(②)人に滅ぼされた。 16世紀にはいると,イスマーイール1世がこの地に(③)朝を建国した。この国は, 6 シーア派の中でもとくに(④)派を国教とし,オスマン帝国と争った。(6)の時代 に最盛期を迎え,高度な文化を発達させた。また1622年に(6)をポルトガル人から問2a 奪回するなど,領土の確保にも努めた。しかし18世紀なかばにアフガン人に首都を b 攻略され,この王朝は滅亡した。 C 問1 文中の空欄0~6に適語を入れよ。 下線部a~cについて次の各問いに答えよ。 この王朝の首都はどこにおかれたか。 これによりティムール朝はどこへの遠征をとりやめることになったか。 c「世界の半分」とたたえられた,この時代の首都はどこか。 問2 a b 2 [オスマン帝国の隆盛1] オスマン帝国の建国者はオスマン1世である。彼は,(①)朝崩壊後の混乱に乗じ 問10 てアナトリア西部に自立し,オスマン帝国初代君主となった。14世紀なかば以降, オスマン帝国はバルカン半島に進出し,1366年に(2) (現在のエディルネ)を首都に した。1396年,(③)はニコポリスの戦いでバルカン諸国とフランス·ドイツなどの ③ 連合軍を撃破したが,その後,小アジアに進出した(④)と衝突し,1402年(5)にお いて大敗を喫した。しかし国力を回復させた(6)は,1453年にコンスタンティノー プルをおとしいれ,ついに(7)帝国を滅ぼした。このときコンスタンティノープル に首都が定められ,以後(8)の呼称が一般化した。 その後,第9代スルタンの(9)は,新興のサファヴィー朝を破った後シリアに進 出し,1517年には(10)朝を滅ぼしてエジプトを併合した。その結果,それまで(0) 朝の管理下にあった両聖都(メッカ·メディナ)の保護権を手に入れ, 以後オスマ ン帝国のスルタンは,カリフ政治の後継者として(D)派イスラーム教を守護する中 心の存在となった。 第10代スルタンの(12)の時代にオスマン帝国は最盛期を迎えた。彼はサファ ヴィー朝から南イラクを奪い,北アフリカにも支配を広げたばかりでなく,ハンガ リーを征服し,1529年には(13)を包囲して,ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。 さらに,1538年には(0)の海戦でスペイン·ヴェネツィアの連合艦隊を破り,地中 海の制海権を手中にした。 文中の空欄の~のに適語を入れよ。 2 (12 愛知工業大学より作成) 2 4 5 6 の 7 8 9 章 0 12 13 問1

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現代文 高校生

至急です! お願いします!! この問題が分かる方、分かるものだけで大丈夫なので教えてください!

41 ステップ2 随想 ステップ2 40 17 随想 40 25 速読 目標時間 6分 15分 本文 /50 *要約 /10 40 ステップ2 読解)作家にとっての「故郷」とは 七標 おくや ひかる 己を放り込む虚構 課題)筆者の観点をおさえて読み進める 問解 人が生まれ育った場所を故郷と呼ぶのなら、庄内は必ずしもぼくの故郷とは言えないだろう。生まれたのはた (要旨をつかむために 第理解を深めよう しかに山形県ではあるけれど、一年も経たぬうちに両親ともども東京に移ってしまったからである。とはいえ母 s 要約のための確認 【各1点】 の実家である、広々とした水田に点在する集落の家には、祖母と曾祖母が残って、毎年夏には必ず帰省して庄内一 ○細盟 平野の穏やかな風光のなかに長い時間を過ごした。 庄内…必ずしも故郷とは言えない 子どもにとって夏休みはそれだけでもう心弾む出来事であるが、ぼくにはさらに田舎での数週間という贈り物 5 がきっかけ (地一) があったわけである。すばやく身を翻し水底の泥に隠れるドジョウ、草いきれのなか息を殺して浮標を見つめた S- 用水路での魚釣り、蚊帳に置かれてあわく明滅する蛍、サエギるもののない広い夜空に横たわる銀河、集落のは 庄内…「故郷」として考え始める 0筆者の気づき(認識) がっさん ずれから繰り返し眺めた月山の姿||。これら子ども時分の貴重な記憶の数々は、一昨年に書いた「三つ目の銃」 「故郷」とはひとつの =D選びとられるもの 0筆者の所感·心境 作家である「ぼく」ー という作品となって一部結晶したのであるが、要するに大人になるまでのぼくにとっては、庄内はただ心楽しく エキサイティングな冒険の場所にすぎなかった。 故郷という言葉とともに山形の家のことを考え始めたのは、三十歳に近くなってから、小説を書き始めたころ を虚構に放り のことである。 込む ひとつのきっかけは父の死である。葬式が終わり、田んぼの真ん中の墓地で、白木の箱から父の骨灰を墓の底 →庄内 にばらばらとまいたとき、かつってない不思議に甘美な気分にぽくは捉えられた。それはどうゃら自分もいずれ死 を与え続けてくれる ねばこうなるのだとの思いであるらしく、そう思って周囲を見回してみれば、五月の水田は湖沼のように陽光を 5 ちょうかいさん」 りょうせん ひばり (通2 まとめてみよう 要約に向けて 所感を四十字以内で書こう。【6点] 映して輝き、月山と鳥海山が蒼くくっきりとした稜線を鮮やかにして墓地を遠くから見つめている。雲雀のさえ ずりが空の高いところできこえた。 自分の死に場所にここは悪くない。そのような声が、「故郷」という言葉とともに、初夏の平野をぼんやりと眺 めるぼくの心に、静かに立ちのぼってきたのである。 「故郷」とは言うまでもなく近代に発明されたひとつの虚構である。都会での生活スタイルが確立されるにつれ 2 生じてきた、だれとも連帯せずに浮遊している人の孤独感、あるいは根を断たれているとの不安感が、温かく己 を包み込んでくれる母胎のごときものとして、己の魂が穏やかに回帰すべき場所として、遠い憧れの地境として、 「故郷」のイメージを文学的に創造した。故郷の山河といった場合、山や河自体は当然昔からそこにあったはずだ けれど、それらが懐かしい風景として思い描かれるにいたったのは、明治以降の文学がそのように描いてきたか らである。 (出2) (型の) たとえば柳田国男の「常民」概念をここであげるなら、それが現実に生きてある人々を具体的にさすのではなく、 失われた何かを回復せんとする柳田のロマン派的文学の心情が作り出した虚構であることは、数多くの批評家が 指摘するとおりである。「常民」とは都会にある者の眼に映った、「故郷」に棲む人間の幻像である。 一方では、少なくとも近世以来、西欧的な都市団体をもたなかったわが国では、都会の生活者といえども地縁 血縁のしがらみからは逃れがたく、そうしたしがらみの象徴としての意味をもまた「故郷」は担うことになった。0 (地4) かくして故郷は両義的であり、だからこそ遠くにありて想うものなのである。 おも 虚構である「故郷」はつまり選びとられるものである。選んだおぼえなどないという人にしても、無意識のうち にそうしているのであり、人生の節目のあるとき、ここがやはり私の故郷なのだと、感慨にとらえられつつ風景 に眼をやった記憶がだれにも必ずあるはずである。 (注5)なか 虚構をこととする作家であるなら、当然この選択にはジカク的である。作家は「故郷」を発見する。たとえば中5 く。 上健次にとっての紀州がそうである。むろん作家は故郷にアンジュウしたり、ただ感傷にひたるために故郷を選 ぶのではない。何らかのかたちで「私」を問題にせざるをえない近代小説の伝統のなかで、己自身をひとつの虚構 に放り込むことで、多様な物語を「私」の内部に導き入れようと作家は企むのである。 ひとりの作家であるぼくは、庄内を自分の「故郷」として選んだ。これから小説を書き進めていくなかで、ぼく の「故郷」は途切れることなく、創造の活力を与え続けてくれるだろう。 (注) 1草いきれ- 2柳田国男- 3常民||柳田国男らによる造語で、柳田の民俗学の対象となった、伝統文化を担う人々のこと。 4遠くにありて…|室生犀星(一八八九~一九六二)の詩をふまえた表現 5中上健次||紀州(現在の和歌山県)生まれの小説家。一九四六~一九九二 -夏、生い茂った草が日光に照りつけられて発する熱気。 -日本の民俗学の創始者。一八七五~一九六二 「近代」(明治以降)において、人 は身分制度や家の概念から自由に なり、地方から都市部へと人口が 流出しはじめた。こうした変化を 背景に、本文での「故郷」のほか、 家」から離れた「個人」といった概 念も生み出された。 むろ う さいせい (ガイド- 従来の観点とは異なる、本文における筆者の認識が端的に示されている一文に線を引こう→問三を攻略

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