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歴史 中学生

プリントを見て、振り返りシートの2を書いて欲しいです。

単元課題 なぜ日本は、戦争が終わって20年弱でオリンピックを開くことができたのだろう。 教科書 P266-267 2 平和で民主的な国家をめざして めあて 日本国憲法の性格を知り、当時の日本がめざした未来を考える。 課題① 日本国憲法と大日本帝国憲法を比較し、 日本国憲法の 「新しさ」 を考えよう。 大日本帝国憲法 日本国憲法 (1890年11月29日施行) (1947年5月3日施行) 天皇 主権者 (①国民 ) 国民主権 国の元首で、統治権をもつ 天皇 国と国民統合の(②象徴) 衆議院と貴族院 国会 衆議院と(③ 参議院) 天皇をたすけて政治を行う 内閣 (④ 国会 )に対して責任を負う 法律の範囲内で認める 基本的人権 (⑤永久の権利)として ひろく保障する 基本的人権の 尊重 天皇が軍隊を統帥する 「戦争・戦力 永久に(⑥戦争を放棄する (⑦戦力 ) 平和主義 )はもたない 首長と議員は 規定なし 地方自治 (⑧ 住民が選挙する) 課題② 日本国憲法に基づいて、 様々な法律が制定 改正されたり、改革が行われたりして、民主化がお しすすめられた。 それぞれの法律や改革について、その内容をまとめよう。 法律・改革 内容 教育の目的は、(⑨人格の完成と平和な国家・社会の形成者を育てること。 教育基本法 教育の機会均等や9年間の義務教育、 男女共学を認める。 民法 男女平等と兄弟姉妹の均等相続や、(⑩夫婦対等) の家族の制度が定められる。 労働基準法 労働条件の(⑩ 最低基準)を定める。 財閥解体 日本の(経済を支酸)してきた財閥の解体が行われる。 農地改革 政府が地主のもつ小作地を(13強制的に買い上げ、小作人に安く売りわたした

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理科 中学生

答えと解説お願いします

79 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 [土佐] 物質は化学式で表されるので, 化学変化も化学式を使って表せる。 化学変化を 化学式で表した式を化学反応式という。 原子は化学変化で, なくなったり,新し くできたり、別の原子に変わったりしない。 したがって, 化学反応式で表すとき 式の左側(化学変化の前) と式の右側 (化学変化の後)では原子の種類と数は変 わっていない。次の気体の燃焼の実験により化学反応式の意味を考えてみる。こ れらの気体はすべて同じ温度,同じ圧力で測ったものとし,また,化学反応式に おける気体の係数の比は, 反応する気体の体積比を表すものとする。 〔実験〕 水素(H2)にメタン (CH) を混合した気体が10Lある(これを気体Aとす る)。これに酸素(O2)20Lをさらに混合して燃焼させ,体積を測ったところ, 全体の体積が12Lになった。 (1)この実験では2種類の反応が起こっている。 水素(H2)とメタン (CH〟)の燃焼 の化学反応式を書きなさい。 ただし, メタンが燃焼したときには, 二酸化炭素 と水が生成する。 (2) はじめにこの実験で酸素の量が燃焼に十分であるかを調べた。 もし, 気体A のすべてがメタンとすると, 化学反応式より ( ① )Lの酸素が必要である。 それゆえにこの実験で加えた酸素の体積は20Lなので酸素は(②)である ことがわかった。次に,気体A中の水素をa L, メタンをbL とすると, 反応 後の水素は(③)L, メタンは( ④)L,酸素は(⑤ L, 二酸化炭素は (⑥ L, 水はすべて気体だとして ⑦ ) Lとなる。ただし、普通の実験条 件では生成した水は液体としてよいので体積は無視できるから,反応後の気体 の体積は(⑧)Lと表すことができる。これが12Lに等しいとして,水素は (9)L, メタンは( ⑩ ) Lと求めることができる。 上の文中の( の①~⑩にあてはまる数値, 語句, 数式を書きなさい。 ※燃焼:物質が,熱や光を出しながら激しく酸素と結びつくこと。 アドバイス (1)の化学反応式ができれば、その式で各物質の化学式の前の係数の比が 反応 生成する物質の体積比となるので, あとは数学的に考えていけばよい。

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現代文 高校生

高3の現代文の問題です 定期テストでこの文章が出るのですが問題文はこのまま出るかわからないので皆さんに問題を予想してもらいたいです もし可能でしたら、今写真にある解答と予想問題の解説もお願いしたいです

高三文系 現代文 特別編 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。 ふりょ 一般に、宗教は、何か倫理以上の奥深いものとして表象され ます。たとえば、大岡昇平は、戦後に戦場と俘虜の体験を「俘 虜記』に書きました。 彼は、小林秀雄が「魂のことを書け」と いったのに、「事実について書く」といって、それを書いたとい っています。彼は、冒頭の「捉まるまで」という章のエピグラ しんらん たんにしょう フとして、親鸞の言葉、「わがこころのよくてころさぬにはあ らず」を引用しています。 『歎異抄』ではつぎのようになって います。 しょうにん またあるとき、聖人は「唯円房は、わたしの言うこと を信ずるか」と仰せられたので、「さようでございます」と お答えしたところ、「それでは、わたしの言うことにそむか ないか」と重ねて仰せられたから、つつしんでおうけしま したところ、「たとえば、人を千人殺してもらえないか。も しそうすれば、かならず浄土に生まれることになろう」と 仰せられた。そのとき、「仰せではありますが、ただの一人 も、わたしの能力では殺せるとも思えません」とお答えし ましたところ、「それでは、どうして親鸞の言うことにさか らわない、というのだ」と仰せられた。 そしてさらに続け て、「これでわかるだろう。 すなわち、どんなことでも心の ままになるものならば、浄土に生まれるために千人殺せと いうときには、ただちに殺すだろう。しかしそうではあっ でも、一人でも殺せるような宿業のはたらきかけがないた めに、殺さないのである。自分の心が善くて、殺さないの ではない。また殺すまいと思っても、百人、あるいは千人 を殺すこともあるだろう」と仰せられた。 (『歎異抄』、第十三条) これは、要するに、人が殺さないのは、自由意志によってで はないということです。 『俘虜記』の「私」は、近づいてきた米 兵を撃たなかった。そのことが結果的に幸いしたのですが、な ぜ撃たなかったのか。それを自問することがこの作品の主題の 一つです。 この作品では、親鸞の言葉は、宗教的な信仰へではなく、徹 底的な「原因」の解明に向かわせています。というより、 大岡 は、そのような文脈において、親鸞を引用しています。 彼は「自 由意志」を認めていない。なぜ撃たなかったかという問いに大 岡が与えた解答は、最終的なものではありません。それは不透 明なままです。しかし、普通なら自分の意志で撃たなかったと いって片づけてしまうところを、そうしない、そのことが、 こ の作品を特異にしています。 ところが、彼は同じ体験にもとづいて、より小説らしい作品 『野火』を書きました。 おそらく、『俘虜記』は評判がよかった にもかかわらず、それは小説ではないと思われたからでしょう。 彼は、『野火』では、まさに小林秀雄がいった「魂のこと」を書 いたのです。しかし、これは『俘虜記』に比べて、小説として、 数段落ちるものでしかありません。まず、『野火』では、殺すか 否かではなく、人肉を食うか否かという問題になっています。 ニューギニアで放置されキガの極に達した日本兵の間にこの ような事件があったことは事実のようですが、 大岡はそれを「極 限状況」としてとりあげたわけです。 しかし、人肉食が殺人よ り残酷だとか、窮極的な悪だということはまちがいです。たと しるし えば、七〇年代に、アンデス山脈にフジチャクしたヨーロッ パの神学生たちが死んだ仲間を食った事件がありましたが、彼 らは「神の許しを乞うてからそうしたということで、それ以 上論議されもしなかったのを覚えています。ところが、大岡の 小説では、なぜか「神」が主人公に食うことを許さないのです。 もう一つの問題は「野火」のことです。 主人公が敗兵として 一人フィリピンの山野をさまよううちに「野火」が見えてきま す。誰が何のためにそれを送っているのかと、主人公は問い続 けます。それは神学的なシペンになり、この「野火」は絶対 的な他者(神)によって送られてきた徴だと解釈されたりも します。 しかし、大岡昇平がこれを小説らしくするために意図 的に忘れようとしていたのは、それがたんにフィリピンの島民 が燃やしたものだということです。それは焼畑農業をしている 農民です。要するに、『野火』に描かれた戦争には、相対的な他 者、すなわち、日本やアメリカが支配していたアジアの人間が 抜けていた。そのため、この作品は宗教的で深遠に見えて、実 は、クウソなものになるほかなかったのです。一方、宗教に 対して冷淡な『俘虜記』のほうに、むしろ世界宗教的な認識が あります。それは、「殺さなかった」ことが、私の自由意志によ るものではないということを徹底的に解明するものだからです。 世界宗教は人間の根源的な罪をいいます。 それは、ひとが自 分には罪がないと思うことを疑わしめるために、そして、その ためにのみ必要です。たとえば、イエスが、「心のうちに姦淫 する者は、すでに姦淫する者なり」とか、「汝らのうち、罪な き者、石もて撃て」とか言ったのは、そのためです。 それらの言葉が意味 す るのは、われわれは 実際には罪を犯し ていなくても、間接的には犯しているのだ、ということです。 これは、個人を、社会的な関係において見ることです。われ われは、媒介的に、あらゆる人々と関係しています。たとえば、 私は牛を殺していないが、ビフテキを食っている。私は軍事的 ・経済的帝国主義に反対であるが、それによって得られた生活 水準を享受している。だから、根本的に考えようとするならば、 直接的に手を下しているかいないかという差異を括弧にいれな ければならない。しかし、宗教は、それを、人間の罪深さとい うことによって、すべての人間を許すということになってしま うのです。実際に姦淫するかしないか、実際に殺すか殺さない かという差異は、A性の前では無くなってしまう。 しかし、 それと同時に倫理も無くなってしまうのです。 しつよう なんじ その点で、「俘虜記』における「私」の、「なぜ米兵を撃たな かったか」という執拗な自問自答は、撃っても撃たなくても 本当は同じだというのとは違います。「私」は、撃たなかったこ とをよかったと考えており、しかし、自分の意志でそうしたの ではなかったというだけなのです。たとえば、 坂口安吾は戦後 にこう書いています。 《なぜ犯罪者をヨビステにしなければなら ぬか。犯罪は憎むべきである。然し、罪を犯さぬ人間がおるか。 ヤミの米を食うことも罪ではないか》(「詐欺の性格」)。 これは 親鸞を『ソウキさせる言葉です。 しかし、これは戦後においてはしばしば、誰が人の責任を問 えるのか、つまり、誰にも責任がないというような論理として 使われたことに注意すべきです。それに対して、安吾はただち にこう付け加えます。 《万人がヤミの米を食う、そうしなければ かんいん

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