ハイデガーの世界内存在は、私の記憶によれば、デカルトとの対比で考えるのが理解しやすいと思います。
デカルトが方法的懐疑というのをおこなったのは知っているでしょうか。
デカルトは、きちんと基礎づけられた学問をつくるには、まず最初に最も確からしいものを見つけて、それを基礎におかねばならないと考えました。そのために、疑わしいものを全部疑ってかかります。それが方法的懐疑です。
デカルトが最終的に至った最も確からしいものというのが私の存在です。コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)という有名な言葉はそのことを表しています。
こうした方法的懐疑において一番最初に疑わしいものとして排除されるのが私たちの感覚です。
この点に注目し、デカルトを批判したのがハイデガーだと言えます。
デカルトは感覚を自らの学問から排除してしまったことによって、世界と関わらない世界を外から鳥瞰している視点に身を置いてしまった。
だが、私たちは実際世界のなかでさまざまなものや他者と関わりながら生きている。世界を外から眺めるような視点では見逃してしまうことがある。
そのように考えて、もう一度世界の内に身を置いている存在者(それが現存在かと)に戻ってその視点から学問を構築しようというのがハイデガーの立場ということだと思います。
そして、そのようなハイデガーの視点が世界内存在と呼ばれるのではないでしょうか。
うろ覚えですので、できれば調べたりして確認してください。