長文失礼します。(かなり長くなるかと思います、すいません。)
上杉謙信(1530~1578)
1530年 冬、越後国で守護代(守護(室町幕府から任命される国の統治者)を助け、何かの時には代わりとなって働く)の長尾家4男として生まれる。(父、長尾為景 母、虎御前)
「毘沙門天(戦いの神様)の生まれ変わり」と言われる。幼名は虎千代。
1536年 林泉寺に入門(この頃は跡継ぎ争いをされるため弟達は寺に入れる)、光育和尚に師事。
1543 兄で当主(一家の主)の晴景の命令で寺を出て、長尾家居城春日山城の重要な支城である栃尾城の城主となる。
景虎(謙信)のあまりの有能さに「景虎は当主である晴景を差し置いて当主になろうと企んでいる」のでは、と考えた晴景の家来たちと争いが起こる(先に攻めてきたのは晴景の家来たち)、が、景虎が勝つ
1548年、守護、上杉定実の助けを借り長尾家当主となる。
1550年、上杉定実が亡くなると幕府から才能を買われた景虎は守護(これまで上杉家の仕事だった)に任じられる。
関東管領、上杉憲政が北条、武田に攻められ景虎の元へ逃げてくる。
1553年、信濃で武田晴信(信玄)が城を奪ったり、領地から追い出したりし始める(武田の民のためである。)。これを理由に第1次川中島の戦いが起こる。
初の上洛(京都にいくこと)を果たす。
しかし、上洛を「時間とお金の無駄」と言っていた北条(きたじょう)が、武田との内通を始める。
1555年、第2時川中島の戦い
1556年、俗世から離れることを願い出家を志し高野山へ。(家臣団の結束を強めるためという説も。)
1557年、第三次川中島の戦い。
1558年、関東管領上杉憲政が再び逃げてくる。
1559年、将軍からの求めに応じ上洛。
1561年、関東に乗り込み北条氏康を攻める。
鎌倉、鶴岡八幡宮にて上杉憲政から関東管領の職を譲られる(養子となる)この頃から上杉政虎と名乗る。(「政」の字を上杉憲政から貰う。)この年の12月、将軍義輝から字をもらいもう一度名前を変えて上杉輝虎と名乗る。
同年、武田が再び攻めてくる(晴信も信玄に改名)、第4時川中島の戦い。、川中島の戦いの中でこれが一番激しいと言われる、輝虎と信玄が一騎打ちをしたのがこの戦い。
40歳を超え、輝虎から謙信に改名。仏の弟子としての名である。戦いに明け暮れる中で、仏の弟子としての名をもらい心の支えにした。
信玄の動きの牽制のため、徳川、織田と同盟を結ぶ。
1573年、ライバル、信玄が死去。
信長を敵にまわすことになる。
信長が安土に城を気づいたと知り、織田を攻める。信長家臣、柴田勝家の軍を破り勝利。
1578年3月。北条攻めの準備中に倒れる。
3月9日。意識を失う。
3月13日。49歳で死去。
このあと、謙信の養子であった謙信の姉の息子、「景勝」と、北条から迎え、景勝の母である謙信の姉の娘を妻にしていた「景虎」が後継者争いを起こす。(遺言は正式には残しておらず、景勝の家臣となる直江兼続の妻お船が聞いたという遺言は景勝だったが証拠はなかった)
御館の乱と呼ばれるこの戦いは最初、北条を後ろ盾に持つ景虎有利だったが、武田勝頼の妹を娶ることで武田と同盟を結んだ景勝が有利に戦況が転換。景勝の勝利に終わる。このあと、景虎、そしてその妻(景勝の妹)は自害(自殺)、この二人の息子で景勝の甥にあたる道満丸も殺される。
ちなみに、上杉謙信には「越後の龍」というあだ名もありました。戦いの旗には「毘」の字が書いてあったことも有名です。
長くなってすみませんでした、、
長くなってごめんなさい!
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こんなに詳しくありがとうございます!!