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グレゴリウス7世が、教皇の座につき教皇と皇帝が対立するということですが、なぜ全ドイツ司教会議で教皇の罷免を決議させるなど、教皇の方が優位に立ってるんですか?、

回答

✨ ベストアンサー ✨

ドイツの司教が神聖ローマ皇帝を支持するのは、聖職叙任権を皇帝が所持していたからです。
この権利はオットー1世以来のものです。彼は、マジャール人などの異教徒を討伐したり、土地を寄進するなどして教会からの評判をかい、聖職者の任免権を得たのです。なぜそのようなことをしたのかというと、国内の有力な諸侯の力を抑えるためです。既にヨーロッパで普遍的な力を持った教会には、たとえ力のある諸侯でも刃向かえない、ということを利用したのです。聖職叙任権をもつ皇帝によって任命された聖職者は、皇帝や世俗と密接な関係を築きましたが、世俗と結びついた聖職者は腐敗・堕落の道を辿りました(予想がつくと思いますが、金銭欲や権力欲が絡んでいます)。聖職者にとって皇帝は自分の大事な保護者となったのです。
そんな中、教会の腐敗・堕落を正そうとする活動が南フランスで始まりました。その先陣をきったのがクリュニー修道院です。グレゴリウス7世はここの出身です。彼は教会の腐敗・堕落の原因が、聖職叙任権を神聖ローマ皇帝が所持しているためだと考え、当時の皇帝ハインリヒ4世に、その権利の変換を要求しました。もちろんハインリヒはこれに反発しました。それに激怒したグレゴリウスは、ハインリヒを破門としました。もちろんドイツの司教はこれに反対するはずですが、ドイツの諸侯らは違います。なぜなら、神聖ローマ帝国が破門されたことで、皇帝に従わなくても良い口実ができたからです。実際、諸侯らはハインリヒに、破門を解いて貰わなければ皇帝の地位から降ろすという声明を出しました。仕方がなくハインリヒが教皇に謝罪したことで破門は解かれました(カノッサの屈辱です。1077年)が、その後国内の諸侯の平定が完了したハインリヒがグレゴリウスがいるローマを攻めたため、以後45年間、教皇と皇帝が叙任権の争奪戦を繰り広げました(叙任権闘争です)。
1122年、叙任権闘争は、叙任権は教皇が有するとしたヴォルムス協約により集結しました(この時教皇側も皇帝に対して譲歩があったため、教皇の完全勝利という訳ではありません。)。叙任権を教皇が持ったことで教皇権が伸長し、その後十字軍などの大規模な宗教運動が可能となりました。教皇権はインノケンティウス3世の時に最盛期を迎えました。

みき

とてもわかりやすく、詳しい説明ありがとうございます😭
疑問点すべて解消しました。
ほんとに感謝してますありがとうございます!!

みき

追加で質問失礼します。
クリュニー修道院とはそういう組織みたいなものですか??

ユッキー

クリュニー修道院は、ベネディクトゥス派の修道院です。ベネディクトゥスは人の名前で、6世紀に中部イタリアのモンテ=カシノに修道院を設立します。ベネディクトゥスは、ここで「祈り、働け」をモットーに掲げ、「清貧、純潔、服従」を理想とする禁欲生活をおくりました。彼のこのような戒律(ベネディクトゥス戒律とも言う)を受け継いだのがクリュニー修道院です。
修道院改革とは、堕落した教会をもとの姿に戻そうとする運動であり、その先陣をきったクリュニー修道院はヨーロッパ各地の修道院を勢力下に持ち、さらにそこからは有能な聖職者が輩出されました。グレゴリウス7世もその1人です。

みき

詳しくありがとうございます😭助かりました!!

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