Japanese
國中
已解決

イだと思っていたのですが、答えはウでした。
なぜウになるのか教えてください。

三次の文章を読み、あとの問いに答えよ。 5 「勉強」と「学び」は似て非なるもの? いや、「勉強」と「学び」には相通じるものも多々ある。それでもあえて両者を区分するのは、近頃、 ちまた あふ その区分を不要とした時代には考えられなかった問題が巷に溢れているからである。 しばらく前に、ネットでひとつの見出しを目にした「日本の小学生は中韓より学ぶ意欲が低い」。本当だろうか? そう思って記事を読むと、 ほらやっぱり。正確には、「日本の小学生は中韓より勉強意欲が低い」。 A メディア報道でさえ、「勉強」と「学び」の区分をつけられない。こうしたセンサーを鈍らせると、「勉強」と「学び」を同一視して、「勉強意欲 の低い子=学ぶ意欲の低い子」という図式を広めてしまうことになる。 はっきり言おう。勉強ができても、学ぶ意欲の低い子はいるし、勉強ができなくても、学ぶ意欲の高い子はいる。 そこで改めて、「勉強」 と 「学び」 の区分。 「勉強」は「学力」、「学び」 は「生きる力」 「勉強」は「問題に答える」こと、「学び」は「問題を立てる」こと。 「勉強」は「わかる」こと、「学 「び」は「めでる」こと。つまり、「勉強」は「理解する」ことを目標にして、「理解できないもの」を消去すること。 「学び」は「理解する」ことを 介して、「理解できないもの」に触れ、恐れ敬うこと、云々。 うんぬん ここからわかるとおり、「勉強」は点数化できても、 「学び」は点数化できない。そのため日本では、「勉強」はプラスとマイナスで語られやすく、 営利主義(「勉強しときまっさ」という関西弁!)と結びつきやすくなる。他方、「学び」は損得とも貧富とも無関係である。 B そう言えば、「僕たちはどうして勉強するんですか?(なんの得があるんですか?)」と問う子供は見かけても、「僕たちはどうして学ぶんですか?」 55と問う子供は見られない。その程度には、まだ世の中も「まとも」(?)である。 いまや「勉強」は、それ以外のもの(進学や就職や結婚)を達成するための道具になっている。他方、「学び」は「手段目的」の利害から逃れ ※ て、それ自体で充足している。しかし昨今の日本では、『ケイコとマナブ』という雑誌にも見られるとおり、「稽古」や「学び」までもが商品化され、 大量消費されている。 ピアノ、英会話、数々の資格、等々。何もやらないより「マシ」、あるいは「将来のため」と口にした途端、「学び」の無償の 効果が「勉強」の先行投資としての価値へ回収されていく時代、それこそ現代。 ※『ケイコとマナブ』 習い事・資格スクールの月刊情報誌。1990年から2016年まで刊行されていた。 (難波江和英 『思考のリフォーム』より)
問2 傍線部B「その程度には、まだ世の中も「まとも」 (?) である」とあるが、このようにいえるのはなぜだと考えられるか。その説明として 最も適切なものを一つ選べ。 ア 子どもは「勉強」 と 「学び」の区分がわかっているようであるから。 イ 子どもは「学び」を他の物事の手段として捉えているようであるから。 ウ子どもは「学び」の意義を問うだけの意欲は持っているようであるから。 エ 子どもは「勉強」が得になると分かればやるだけの意欲は持っているようであるから。

解答

✨ 最佳解答 ✨

一行後ろに、学びは手段ー目的の利害から逃れている、とあります。
それ自体で充足しているものです。
この記述からイは当てはまりません。
イになるのは、学びではなく勉強の方です。
損得とは無関係である「学び」は理解できないものに触れ恐れ敬うことだとすれば、学びは生き方に関わってくるものであり、その意義に疑問を投げかけないのはまともだということになります。

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