Senior High
日本史A

日本史A[ペリー来航〜藩閥政府]

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1

えり

えり

Senior High所有年級

初投稿です☺︎

至らない点も多いですが、
試験勉強などに役立てていただけたらと思います。

2枚でセットになっていて、〈#○〉が説明や補足、関連となっています。
偶数ページの右上のページ数は 「山川出版社 日本史A」と対応していますので参考までに。

アドバイスなどありましたら、宜しくお願いします!

ノートテキスト

ページ1:

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ページ2:

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ページ3:

1854年
ロシアのプチャーチンがふたたび来航
下田で日露和親条約を結ぶ <#1>
⇒イギリス・オランダとも同様の内容を結ぶ
ペリー来航板 老中首座阿部正弘による安政の改革
外交・幕府が外交を独占せず、朝廷に報告し
<#2>
諸大名や、幕臣にも意見を述べさせ、赤因的な対策
⇒朝廷の権威↑ 幕政のあり方の転換
国防・品川沖に台場(砲台)の設置
長崎で海軍伝習
江戸に蕃書調所や講武所の設置
要や洋書の翻訳と教授を教う
1856年
米初代総領事ハリスの来日
・1858年
アロー戦争
1858年
日米修好通商条約
下田に駐在し、通商条約の締能を求めた。 <#3>
清がイギリス・フランスと天津条約を結ぶ。
このときも
天皇の許可は
得ていない」
臨時の最高職である井伊直弼が調印 <#4>
アメリカについで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも
同様の条約を結ぶ。
開港地の神奈川を横浜に変更。
朝収入額 横浜
11859年
⇒横浜・長崎・箱館の3港で貿易開始中国イギリス
1860年
外国奉行新見正興を首席全権としてアメリカに派遣
(万延遣米使節) <5>
その後居留地貿易がさかんに。(外国商人と日本人商人)
1.輸出品<生糸・茶・蚕卵紙・海産物 >
輸入品く毛織物・綿織物・鉄砲・艦船>
⇒毎年のように輸出超過
1860年 五品江戸廻送会
<#7>
雑穀・水油(菜種油)・蟻・呉服・生糸の5品を
江戸の問屋を通じて輸出 ⇒反対により効果なし

ページ4:

華太は境界を定めないとした。
<#1>
この条約で下田・箱館・長崎の3港を開港し、
国境については択捉島以南
[P.21:L.9 ~P.24.L17]
を日本領、得撫島以北をロシア領とし、
<#2>幕政に参与した
前水戸藩主徳川斉昭
協力した藩主たち越前藩主松平慶永
薩摩藩主島津斉彬
宇和島藩主伊達宗城
〃
幕臣 永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨
<#3>
老中首座堀田正睦は幕府のみで対応できる事態でないと
判断し、条約調印の勅許(天皇の許可)を求めるが得られなかった。
<#4> 内容
(1) 神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂を
関市とする。
(2)通商は自由貿易とする
(3)開港場に居留地を設け、一般外国人の国内旅行を禁止
(4)日本に滞在する自国民の領事裁判権を認め、
実質的には日本の法律のおよばない治外法権の特権を与える
(5) 関税について、日本側に関税自主権を認めず相互で
協定して決める(協定関税制)
<#5>
別冊の
貿易幸典によって決まる
・勝義邦(海舟)を艦長とする幕府の軍艦が
使節に随行。日本人初となる太平洋横断に成功。
<6>
・製糸業では、生産性を高めた座緑が広まり、
その原料を作る養蚕業も拡大。
< #7 >
在郷商人が問屋を通さずに輸出向け商品を売込商に直送
⇒江戸を中心とする問屋の特権的な流通機構が崩れる
⇒国内向けの商品が不足し、物価が高騰

ページ5:

<#1>
銀
〔R24.L.17~P.26.1.10〕
・金・銀の
交換比率により
日本
1
5
銀が流出
外国
15
<#2>
幕府はイギリスから謝罪と賠償金を要求され、
薩摩藩は他人の死刑と、賠償金を要求される。
のちに薩英戦争の原因となる。
<#3>…第13代将軍家定に子がいないためにおきた。
一橋派
徳川慶喜(徳川斉昭の子)
越前藩主松平慶永
薩摩藩主島津斉彬
南紀派
ta
病弱でもあった
らしい…
徳川慶福(血統の近い幼年)
だれによる幕政運営に固執する譜代大名ら
SIL[参根藩主井伊直弼
☆賢明な人物を求める。
☆血縁関係で判断
<#4>
・通商条約の
調印により、開港を好まない孝明天皇の
怒りをまねき、衝突
⇒徳川斉昭や一橋慶喜、松平慶永らは退けられ
越前藩土橋本左内、長州藩士吉田松陰ら死刑に。
⇒幕府の威信は回復するどころか、
反幕府運動が高まった。
★有能な人材が失われ、幕府は弱体化する。
もとになっている
→尊王覇・徳をもっておさめる主は、力をもっておさめる王者にまさる
→儒教的な考え方である。
<#5>
公武合体政策・・・朝廷(公)と幕府(武)の融和をはかり、
政局を安定させようとした。

ページ6:

坂下門外の
藩主の実父で藩の実権を握っていた。
友の中、島津久光による幕政改革の要求
で勅使 大原重徳が江戸にくだった)
その後
文久の改革…幕府、職制の改革<#1>
1863年 長州藩外国船砲撃事件 <#5>
・京都で主道権を握っていた長州藩は、勅使 三条実美ら
を江戸にくだして、攘夷の決行をせまる
1863年 八月十八日の政変
<#2>
・薩摩藩と会津藩は長州勢力を京都から追放
⇒三条実美ら急進派の公家は長州を頼って
退去した。(七卿落ち)
てんちゅうぐみ
天誅組の変…公家の中山忠光、土佐藩の吉村虎太郎
らが、大和珠の代官所を襲撃
11863年
いくの
<#3>
生野の変…福岡藩の平野国臣らが但馬生野の代官所を表
1864年 天狗党の乱・・・水戸藩保守派に敗れた急進派が京都へ向かう
途中の敦賀で投降、藤田小四郎・武田耕雲斎
らが、処刑される。
1864年 池田屋事件 京都守護職指揮下にある近藤勇ら
新選組が尊攘派を襲撃
はまぐりごもん
禁門の変(蛤御門の肉)
・池田屋事件をきっかけに京都へ攻めのぼるが会津の桑名・薩摩
の兵に敗れていた。
1863年 薩英戦争<#4>
薩摩藩はボロ負け
1864年
第1次長州征討
・幕府は長州に禁門の変の責任を問う
1864年 四国艦隊下関砲撃事件<#5>
・イギリス、フランス、アメリカ、オランダによる

ページ7:

<#1>「徳川慶喜を将軍後見職
人事松平慶永を政事総裁職に任命
[P.26.L10~P.28 L.7)
京都守護職を設け、会津藩主松平容保を任命
西洋式軍制の採用
・ 政策(
参勤交代の緩和
●次第に
変化が……。
長州
薩摩
現時点の
政策
尊王
攘夷
幕府
公武合体公武合体
攘夷 開国
朝廷
公武合体
攘夷
<#3>
●3つの事件は尊攘派の挙兵事件であるが、
地元の農民や、民衆の支持を得られなかったために、
彼らを組織することができず、失敗に終わってしまった。
<#4>
1862年におきた生麦事件の報復として、
鹿児島湾沖に進撃してきたイギリス軍隊の砲火を浴びる。
⇒攘夷は不可能であると考えを改めるきっかけに。
< #5>
☆セットで覚える!
「①長州藩外国船砲撃事件 長州藩による攘夷決行。
(1863年)
③四国艦隊下関砲撃事件
(1864年)
下関の海峡を通過する外国船を
次々と砲撃した。
華のもと、回国連合艦隊が攻撃
「②の報復として、イギリスの公使オールコック
⇒誰もが攘夷は不可能であると理解する。

ページ8:

1865年
兵庫沖へ列強の艦隊を送り朝廷へ圧力をかける
⇒通商条約の勅許をださせる
1866年 改税約書に調印 <#1>
・平均20%の関税率を、
兵庫港
開港延期の
代償
輸入関税のみ5%に引き下げると改める
1861年
ロシアによる対馬占拠事件
⇒ロシアは対馬に軍港を建設しようとし
長州の
幕府や対馬の領主宗氏は対策に困るが、
イギリスの圧力によってロシアは撤退した。
<2>
<#3>
狂の「高杉晋作・桂小五郎(椚)らが倒鼻の意をかためる
⇒高杉は身分に関わらない志願により諸隊(奇兵隊)を
組織して、藩の実権を握るやる気のある農民や町人など庶民もいた。
1865年
(空)薩摩藩が間接的に長州藩を支持。
開始が遅れる
すでに開国進取に
転じていた。
1866年 薩長同盟(連合)・軍事同盟の密約をかわす。
・土佐藩出身の坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲立ちによる
第2次長州征討の開始 <#4>
⇒幕府軍は連戦連敗→徳川家茂の死により中止
1866年 孝明天皇の急死 <#5>
1867年
ごろ
°
1867年
ごろ
°
世直し騒動く世直レー揆)
<#6-①,②>
貧農中心に社会の変革を求め高利貸・地主を含む家を
打ちこわす。
国訴
・大坂周辺を中心に、農村地帯で本・雑種等の
流通の自由化を求める。
・ええじゃないかの乱舞(世直しへの期待)
⇒東海
畿内一帯におこる
<#7>
⇒街道がふさがれ幕府の関東からの軍事動員を
困難にし、結果的に倒幕派に有利にはたらく。

ページ9:

<#1>
〔P.28.L.7~P.31.圸いる
孝明天皇は京都に外国人が近づくことを嫌ったため、
兵庫開港を延期した。
・関税の引き下げだけでなく、自由貿易をさまたげる制限も撤廃
<#2>列強の動き
・イギリス・・・雄藩連合政権の実現を期待
4
【対立】
★フランス
イギリス公使
パークスは
府の無力に
気づく
⇒薩摩藩も薩英戦争の経験から逆に接近して
いい
開明政策に転じ西郷隆盛 大久保利通ら革新派か
政を指導
幕府を支持
⇒多額の借款を供与し、軍艦・武器の購入や
横須賀製鉄所の建設費にあてさせた。
また、幕府軍の訓練や幕府中心の政権構想を提示した。
<#3>・2人は共に吉田松陰の松下村塾で学んだ。
<#4>連政連敗のワケ
・薩摩藩の不参加であったことに加え、幕府軍は
<#5>
<#6
人数は多いが、寄せ集めで士気が低く、
旧式の装備で性能が劣っていた。
孝明天皇は、攘夷をのぞんでいたが倒幕はのぞまず
公武合体の考えをもっていたため、幕府にとって彼の氏は
大きな痛手となった。
(1866)2
・横浜で大きな利益を上げていた豪農に対して
①・武州一揆…江戸周辺の一揆で10万人をこえる農民が参加
・打ちごわい…江戸、大坂で激発
②第二次長州征討により、物価急騰、年貢増徴
人夫動員などで生活は苦しくなった。
<47>セットで覚える!教派神道…秋葉肺のだったお金から救われたいという気の
・天理教 大和急激に普及→伊勢神宮への
金光教 備中
御蔭参りが流行

ページ10:

家茂の死後 第15代将軍徳川慶喜による幕政改革
幕府再建のため諸大名をおさえて、中央集権体制を
築くというロッシュの策を取り入れ、建て直しにつとめる。
フランス公使
⇒フランスから陸軍土をまねいて里制改革
1867年 大政奉還の上表 <#1>
土佐藩による構想(公議政体
朝廷のもとで徳川氏主導による有力諸藩の連合政権
同日
薩長岡藩と朝廷内の岩倉具視らと結んで
討幕の密勅を準備
いわゆる
クーデター!
1867年 王政復古の大号令 <#2>
徳川氏を排除し、新政府を樹立
その夜
三職による小御所会議
・慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の返上が
命じられる。(辞宮納地)<#3>
⇒ 京都の二条城から軍事的に有利な大坂城に引き揚げ
新政府と対立
1868年1月 鳥羽・伏見の戦い、旧幕府vs新政府
<#5>
・慶喜は江戸へ
<#4>
・新政府は慶喜を朝敵とみなし、東征軍を派遣
4月 西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城
9月 会津戦争
・旧帝医側の抗戦派である奥羽越列藩同盟が
鎮圧され、会津若松城も落城
1869年5月 箱館戦争 五稜郭に立てもった榎本武揚らが降伏
1868年 五箇条の哲
(戊辰戦争中)
<#6>
公議世論の尊重と開国和親が理念
⇒攘夷を禁止し、天皇親政を宣言

ページ11:

〔P.34.L.2~P.36.L11]
<#1>政体書のしくみ
太政官 ・行政官(行政) ・神祇官や軍務官など、 ↓
・形法官(司法)
公議所から集議院へ
議政官(まま)・・・諏定、給与からなる上局と名方選出の土からなる下局
☆一般庶民への五椒の掲示
<#2>
⇒儒教的道徳の協調や、徒党、強訴、逃散の禁止
キリスト教の禁止
中世以来の形式である高札」という方法で公布される。
④中央集権を進めるためには、大名を藩主とする旧来の
藩体制の廃止が必要。
⇒②藩主の家録と藩の財政は分離されたが、
旧大名の実権は温存され、中央集権の効果は上がらず。
⇒ ③諸藩の中には負債により、藩政を維持することが
困難になっていたところもあったため、ほとんど
抵抗なく行われた。
たいぶ
<#3>・しくみ 右院…各省の長官(卵次官(大輔)を集めて省務を協議
・
•
太政官正院…太政大臣、右大臣、左大臣と参議により構成
・左院・立法機関であり、正院の諮問にこたえる。
<#4> 新政府の首脳
公家 三条実美、岩倉具視
土佐
薩摩 →西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆
→板垣退助、後藤象二郎、佐佐木行
→木戸孝允 伊藤博文、井上馨山県有朋
肥前→大隈重信、大木喬任、副島種臣、江藤新平
長州

留言

まど
まど

ページが奇数なんですけども…5ページ目の#1~#5の歴史表(?)ってありますか?

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