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日本史A

日本史A No.2 (序章2)

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haba1145

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暗記用です。

ノートテキスト

ページ1:

2 新しい経済構造と学問の芽生え
<経済構造の変化>
にのみやさんとく
Date
おおいようゆうがく
①幕藩体制は、(天保の飢饉)の前後から各地でゆきづまり、(二宮尊徳)や(大原幽学)ら
が復興を試みたが、一部にとどまった。
②商品生産に活発になり、河内の(綿織物)や(麻)、北関東の桐生・足利の絹織物)、
下総の野田・銚子の(醤油)など、(特産品)が各地に生まれていた。
③藩は、専売制をしいて(商品生産)による利益を得て藩財政の基盤にした。
→代表例:越前の(紙)、肥前藩の(有田焼)、尾張藩の(瀬戸焼)など。
④ 18世紀になると、織物業)などでは生産者が問屋商人から資金や原料・道具の前貸しを受け、
製品を納める(問屋制家内工業)が農村にも広まった。
⑤ 19世紀になると、大坂周辺や尾西地方の(綿織物業)、北関東の絹織物業)などでは地主
や問屋商人が資本家として(工場)を設け、農業から離れた賃労働者を集め、協同作業に
よる(加工生産)をおこなうようになった。→(工場制手工業)
<新しい学問と思想>
① 近世社会に新風を吹き込んだ学問は、(国学)と(洋学)であった。
②国学とは、(儒教)や(仏教)などの外来の思想を排して日本古来の思想を求める学問。
かだのあげままち
→18世紀前半に(荷田春満)や(賀茂真淵)が出て、18世紀後半に(本居宣長)が日本古来
にあったね
の精神に返ることを主張し、19世紀に入ると(平田篤胤)は復古神道を開き、復古主義の
傾向を強めた。
・洋学とは、オランダ語を通じて学ぶ(蘭学)として発達したものである。8代将軍(徳川吉宗)
教えたく
ひろげない
は、漢方洋書の輸入制限をゆるめて簡字の基礎を築き、(前野良沢)、(杉田玄白)らは
「(解体新書)』を訳述して医学の発達をうながした。(平賀源内)は蘭学で得た知識
の実用化を試み、(伊能忠敬)は精密な「(大日本沿海輿地全図」を作成した。
④幕府は、天文方に(黄害和解御角)を設け、洋用の翻訳事業を進めた。ドイツ人の(シーボルト)
は長崎郊外に鳴滝熱を開き、天保期には(緒方洪庵)が大坂に適塾を開いた。
ぎゅうとうい だざいしたい
⑤ 18世紀以降、(荻生徂徠)(太宰春台らをはじめとする儒学者によって幕藩体制の維持・
いせいうん、
改良策を説く(経ぜ論)が活発に展開されるようになった。また、八戸の医者(安藤監督
は 『自然真営道』を著して身分制社会を否定した。
⑩18世紀末~19世紀にかけて、(海防)論と(開国)論が生まれてきた。
けんだとしあき、
→(株)は『海国兵談』(本多利明)や(佐藤信器)は産業の国営化と貿易の振興を主張。
⑦(水戸学)では早くから天皇を指として尊ぶことが説かれたが、将軍の存在を前提としていた。
ただいに
⑧ 18世紀縦半には、(竹内式部)や(山県大弐)のように、尊王論を説いて(処罰されるも
のも現れた。
⑨幕末期に内外の危機が深まると、(水戸藩)では雪玉と排外でを合体させた
(尊王攘夷論)がとなえられ、現実の政治運動と結びついていった。

ページ2:

2 新しい経済構造と学問の芽生え
<経済構造の変化>
にのみやさんとく
Date
おみようゆうがく
・幕藩体制は、(天保の飢饉)の前後から各地でゆきづまり、(二宮尊徳)や(大原幽学)ら
が復興を試みたが、一部にとどまった。
②商品生産が活発になり、河内の(綿織物)や(麻)、北関東の桐生・足利の絹織物)、
下総の野田・銚子の(醤油)など、(特産品)が各地に生まれていた。
③藩は、専売制をしいて(商品生産)による利益を得て藩財政の基盤にした。
→代表例:越前の(紙)、肥前藩の(有田焼)、尾張藩の(瀬戸焼)など。
18世紀になると、織物業)などでは生産者が問屋商人から資金や原料・道具の前貸しを受け、
製品を納める(問屋制家内工業)が農村にも広まった。
⑤ 19世紀になると、大坂周辺や尾西地方の綿織物業)、北関東の(絹織物業)などでは地主
や問屋商人が資本家として(工場)を設け、農業から離れた賃労働者を集め、協同作業に
よる(加工生産)をおこなうようになった。→(工場制手工業)
<新しい学問と思想〉
① 近世社会に新風を吹き込んだ学問は、(国学)と(洋学)であった。
②国学とは、(儒教)や(仏教)などの外来の思想を排して日本古来の思想を求める学問。
かだのあげままろ
→18世紀前半に(荷田春満)や(賀茂真淵)が出て、18世紀後半に(本居宣長)が日本古来
あったね
の精神に返ることを主張し、19世紀に入ると(平田篤胤)は復古神道を開き、復古主義の
傾向を強めた。
③洋学とは、オランダ語を通じて学ぶ(蘭学)として発達したものである。8代将軍(徳川吉宗)
まえのリアウなく
ひろがげんない
は、漢方洋書の輸入制限をゆるめて簡学の基礎を築き、(前野良沢)(杉田玄白)らは
「(解体新書)』を記述して医学の発達をうながした。(平賀源内)は蘭学で得た知識
の実用化を試み、(伊能忠敬)は精密な「(大日本沿海輿地全図)」を作成した。
しよう
④幕府は、天方に(警書和解御用)を設け、洋用の翻訳事業を進めた。ドイツ人の(シーボルト)
おがにこうあん
は長崎郊外に鳴滝塾を開き、天保期には(緒方洪庵)が大坂に適塾を開いた。
とらい 「だいしたい
⑤ 18世紀以降、(最生徂徠)(太宰春)らをはじめとする儒学者によって幕藩体制の維持・
改良策を説く(総論)が活姿に展開されるようになった。また、八戸の医者(総合)
は『自然真営道』を著して身分制社会を否定した。
⑩18世紀末~19世紀にかけて、(海防)論と(開国)論が生まれてきた。
んだとしあき
→(桜子)は『海国兵談』(本多利明)や(佐藤信器)は産業の国営化と貿易の振興を主張。
⑦(水戸学)では早くから天皇を王として尊ぶことが説かれたが、将軍の存在を前提としていた。
ただい
⑧ 18世紀縦半には、(竹内式部)や(山県大弐)のように、尊王論を説いて処罰されるも
のも現れた。
⑨ 幕末期に内外の危機が深まると、(水)では雪玉と排外でを合体させた
(尊王攘夷論)がとなえられ、現実の政治運動と結びついていった。

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